2011年2月19日土曜日

うつ病についての積み残し (1) 中安信夫先生の意見

小沢さんについて書いていて思ったこと。「欺瞞性」は人間性を語る上でで極めて重要な性質だが、精神分析にはそのような問題を語る言語はないように思う。でもそれは私達が常に他人から直感的に感じ取ることである。なぜならそれは私達が他人から見を守るために極めて重要だからだろう。ところが政治家としての力や価値は、おそらくそれとは別の次元である可能性がある。人を脅し、欺いて動かすことで大きな政治的な目的を達成することもできるからだ。そこが興味深くもあり、悲劇的なのだろう。鳩山兄弟は・・・・。

以下は積み残しだ。まだ論ずるべきテーマはたくさんある。私も精神科医の端くれだから、「新型うつ病」に関する日本精神医学会の意見を少し書いてみたい。これには格好の素材がある。日本精神神経学雑誌の比較的新しい号が、これを特集しているのだ。日本精神神経学雑誌といえば、精神科医の学会である日本精神神経学会の学会誌であり、非常に権威のある学術誌である。その2009年の第6号に「うつ病の広がりをどう考えるか」というシンポジウムの特集が掲載されている。そこには、日本の精神医学会をリードする先生方のこの問題についての見解が乗っている。これを少し整理したい。
その中で特に中安信夫先生の見解。
中安先生は私が昔ご指導いただいた先生で、高名な精神病理学者である。彼はDSM反対論者としても知られ、この号でももっぱらDSMにおける「大うつ病」に対する批判を行ないつつ、この問題について論じている。これは参考になる。ただし啓発される、というよりは、日本でのオーソリティの意見がどのようなものかよくわかるという意味でである。なるべくわかりやすく彼の主張をまとめてみたい。
「そもそも伝統的には、うつ病は次のように分類されていた。内因性と、反応性(心因性)と。これは基本的には妥当な分類だ。後者は抑うつ反応と、抑うつ神経症に別れるが、ある種の出来事に対する反応という意味では似ている。両者の違いといえば、「時が癒す」ことが出来れば抑うつ反応。「時が癒し」てくれなければ抑うつ神経症。つまりもともと性格の問題があると、時間が経っても体験の影響を受けつづけると考えられるからだ。ところが最近のDSMはこの基本的な分類を混乱させている。特に「大うつ病 major depression」という概念が問題だ。そもそもDSMの「成因を問わない」という方針が大間違いであり、従来の診断からは当然抑うつ反応や抑うつ神経症になるべきものが、「大うつ病」に分類される。なぜなら症状をカウントして9項目中8項目を満たす、などと機械的に診断を用いることで、簡単に大うつ病になってしまうからだ。従って「新型うつ病」という新しいうつ病も存在しない。それは本来は、心因反応や抑うつ神経症という診断をつけるべきものであり、それがDSMにより大うつ病と誤診されたものであるに過ぎない。その診断書をもって休職届けを出す人が増えた、というだけの話である。」
さて中安先生の見解に対する私の意見である。私は伝統的な、内因性か反応性(心因性)かという分類が、明確には出来ないというケースが多いという事情が問題なのであり、彼の理論はその点を考慮しているとは言いがたいと思う。この内因性か反応性か、という分類については、前者が私のいう「脳のうつ」、後者が「心のうつ」に大体相当するといっていいが、うつの難しい点は、後者が前者に移行し、前者は後者の体裁を取りつつ発症することがあるというところにある。
私は中安先生は、DSMの大うつ病の概念を全面否定するということで、理論的な整合性を犠牲にしてしまっているのではないかと思う。先生はかねてからDSMの「成因を問わない」という「操作主義的」な点を痛烈に批判なさる。しかしDSMのそのような性質は、もちろん多くの問題を含んでいるものの、精神医学の歴史の流れの上である程度の必然性をともなってできたものであり、その価値を白か黒かで決められないと考える。中安先生は輝かしい業績のある、日本の精神医学の頭脳とでもいうべき存在ではあるが、DSMに対する反発や怒りが、彼の臨床観察の精度を落としているように思えてならない。
うつをひとつの症候群とみなして、「不眠、抑うつ気分、食欲の減退、自殺念慮・・・・などをいくつ以上満たしたら、うつ病と呼ぼう」という約束事はやはり必要と思う。なぜなら何をうつ病と呼ぶかが、人によりあまりにも異なるからだ。うつを内因と心因に分けるという発想自体が過去のものになりつつある。それが内因性でも心因性でも、うつはうつ、なのである。一見心因性と思われたうつが、結局長引いて深刻なうつになる、ということが実際に起きるからだ。それほど心因性の疾患という概念は曖昧な点を含んでいる。何が心因かが結局は主観的な問題でしかありえないということを、この四半世紀のあいだの外傷理論の変遷が示しているのだ。