2011年1月14日金曜日

雑感

枝野さんの官房長官就任。もともと幹事長を辞任した時も、彼の判断ミスや失言などが原因でわけではない(と私は思っている)。小沢グループから嫌われ、負けた選挙の際に幹事長だったというだけで責任を取らされたわけだ。そして彼は特にそれに抵抗することなく受け入れた。あの淡々とした、恨みのこもっていない態度が、今回の彼の起用にも繋がる。あの種の辞任は、本人も楽しむべきものだろう。次にいつ声がかかるかを待っていればいいからだ。

人は左遷された際に、そのされ方が傍目から見て理不尽であればあるほど、将来再評価される可能性も高い。その間自分にとって有意義な生き方をしていればいいのだ。これはこれでむしろ楽しい時間ではないだろうか。
なぜ不当な評価を受けた後には、再評価される時が来るのか。それは世間は誰かをオールバッドとして不当に扱った場合には、必ず後ろめたさを感じ、その人を救済しようとするからだ。いわゆる判官贔屓とは、そのようなことをさすのだろう。(もちろんまったく逆のこともおきる。実力以上に高い評価を受けた場合だ。これはじつは覚悟のいる体験である。)

私も同じように考えるようにしている。職場での同僚や上司との関係でも、患者との治療関係でも色々なことがある。自分の真意が伝わらない為に不当な扱いを受けたと感じることはよくあることだが、それを甘んじて受けることは実は楽しむべきことだと考えるようにしている。もちろん役割や責任を外されるのはふがいないが、責任から外れることの開放感はある。新たに得られた時間的な余裕を純粋に楽しめばいい。そして将来またいい縁に恵まれ、出会いがあるまで待てばいいのだ。
これって、1月5日に書いた「覚悟」のテーマにも繋がる。覚悟を持って決断を下すということは、「それが人に受け入れられなければ、職を辞せばいい」ということだが、職を辞すこと自体がつらく悲しい体験であったら、覚悟を持つということもつらく悲しいことになる。しかし職を辞すことが、開放感や新たな時間を生み出すことを楽しめるのであれば、覚悟を決めるということ自体が特別悲壮を帯びていたり、勇気ある行動ではなくなってくる。むしろ冷静な選択の仕方の問題ということだろう。
話しがややこしくなったので民主党の話に戻す。1月5日のブログで、「菅さんは総理を辞任することを恐れていては何も大きなことができない」というようなことを書いたが、そのために勇気を持て、という事ではなく、総理を辞めた後の自分も楽しめる、という余裕を持つことが最初だろう、ということだ。少なくとも小泉さんはそうしている気がする。そのような覚悟が全然ないと鳩山由紀夫さんのようなことになるのだろう。「引退する」、と言った時も、おそらく「引退をやめる」、と言った時も覚悟とは程遠い「思いつき」ではなかったのだろうか、と思いたくなる。