今日は阪神淡路大震災から16周年であるという。甚大な被害と、たくさんの外傷性の精神障害を抱えた犠牲者を出したあの出来事についてのニュースを聞いた時、私はアメリカ滞在中で、市内の病院の一室にいた。当時4歳だった息子が肺膿瘍という病気になり、入院して手術を待っているところだった。肺膿瘍とは、肺炎の後の予後が悪く、胸腔、つまり胸壁と肺の実質の薄い隙間に、膿がいっぱいたまっている状態である。普段は肺と胸腔の間には摩擦がなく、その中を肺は自由に膨らんだり縮んだりできる。ところがそこに一面にバターを厚く塗ったように膿がたまり、いつまでも熱が続く。炎症はそのうちおさまって熱は下がっても、膿はそのうち固まり、胸壁と肺の実質をがっちりと糊づけしてしまう。その膿を今のうちに開胸して掻きださない限り、やがて成長する際に胸が引きつれてしまう、などの説明を医師から受け、エンパイエーマ(肺膿瘍)というその英語の病名と何度も繰り返していた。それから二週間続くことになった入院中、私と今の神さんはほとんど病室に寝泊まり状態だったのであるが、そんなときに、遠い日本で大きな地震による被害があったというニュースを聞いたのである。だから幼い息子が全身麻酔の手術に耐えられるのだろうか、そしてその手術から無事生還するのか、精神的な外傷にはならないのか、というその時の不安や暗澹たる思いと阪神大震災についての第一報を、私は今でも分けて考えることは出来ない。それにその病室で息子の熱で赤みを帯びた頬をして眠っている姿を横目で見ながら、私はワープロ原稿を打ち、秋に出版に備えていたのであるが、それが奇しくも外傷についての私の初めての単著「外傷性精神障害」だったのである。
人格Aと人格Bは別人である、という言い方をする時、次のような反論が起きることがある。しばしば二つの人格は、同時に存在して、ひとつの体験を共有することがある。自分の肩口あたりにもうひとつの人格を常に感じる、と語る患者さんもいる。両者の間に健忘障壁が明確な形では存在しないことも多い。しかしそれでもA、Bは別人である。それは例えばシャム双生児が持つ体験に類似している。体を共有する二つの人格は、明らかに別々の体験を持ち、他人同士である。しかしただひとつの身体を共有するという運命を逃れることが出来ない。だからこそ意見の対立や様々な葛藤が生じることになる。