2011年1月11日火曜日

女性性について その1. 「かわいらしさ」を考える

私が女性独特の心情の中で、なかなかピンと来ないのが、「かわいい」ということである。今朝うちの神さんに聞いてみた。「かわいい、と言われるとうれしい?あるいはかつて言われた時、うれしかった?」彼女はそれを肯定して、女性にとって「かわいい」、と言われることはおそらく誰にとってもとくに抵抗なくうれしいことであるという。それは年齢を重ねても同じで、ただし中高年になると「かわいい」と言われた時「この人、からかってるんじゃないの?」と同時に考えてしまうだけだという。神さんはおそらく若いころからかわいい、と人に言われることが少しだけ多かったであろうが(私もひょっとしたら昔そう言ったかもしれない)、実は彼女の心理は屈折していて、異性にこびるとか、女らしさを武器にするということに関してはかなり嫌悪感を持っているのも知っている。しかしその彼女でも、女性にとって「かわいい」は無条件の賛辞だろうという。
おそらく男性にとって「かわいい」が賛辞にきこえるということはあまりないのだ。男性にとって無条件の賛辞があるとしたら、それはおそらく強さや優越性に関するものだろう。「(精神的、肉体的に)とてもお強い方です。」「大変優れた才能をお持ちの方です」と人に評価してもらうことでいやな気持ちを持つ男性は極めて少ないであろう。もちろん「馬鹿にされているのではないか?」という懸念は差し引いた場合である。しかし「ハンサムですね」とか、ましてや「かわいいですね」といわれて少しでも複雑な心境にならない男性はいないのではないか?ハンサムさ、かわいらしさ、がなんとなく強さや優越性をスポイルしてしまうのではないかと思うからだ。
ただし優越性に関しては女性にもアピールするかもしれない。たとえば「一番かわいい」と言われるほうが「3番目にかわいい」と言われるよりはいいだろう。ということは優越性に関しては、人間として、つまり男女共にそれを嬉しく思い、その優越性が何によるか、というところから男女で分かれると考えたほうが正確だろう。つまりそれが男性は「強さ」、女性は「かわい(らし)さ」により人に優越することなのだろう。
なぜこんなことを書いているかというと、私が先日から書いている母娘の関係や女性性の問題との文脈で、女性性を知る上でのキーワードはこの「かわいさ」だろうと思うからだ。いまや国際的に知られる表現となっている東京の kawaii が、あれだけ個人としての主張や独立を尊重する欧米の女性にもアピールしていることは、これが文化を超えた問題であることを示しているといえる。(つづくと思う。)