2010年10月30日土曜日

快楽の条件 5-1. 人から与え続けられる恩恵は時とともに快楽的要素のほとんどを失う

大型の台風14号が今関東地方を直撃しつつある。10月の台風が列島を襲うのは珍しいそうだ。こういう日は私の妄想が膨らむ。「決して雨が降らない、そして決して寒すぎることのないところで暮らしたい。」そしてこれは案外簡単に「引きこもり願望」へと繋がる気がする。

さて今日のテーマ。これは快楽の条件 5. 「自分が持っているものは、もはや快楽的ではない」の補遺のようなものだ。
これが典型的な形で見られるのは、やはりなんといっても親子の関係だろう。親は成人した子に、自立するまでは生活費を援助するのが普通だ。子はそれを当然のものとし、特に恩に感じることもない(ように見うけられる)ことがしばしばである。不幸なのは、恩を与えている側がそれを自分の当然なすべきことと割り切っているうちはいいが、時には「どうして感謝されるべきことをしていて、当たり前と思われるのだろう? 電話一つよこさないとはケシカラン!」となる場合だ。しかし5-1で、人はそもそも快楽を体験する上で、そのような性質を持つ、という提言を行っている通り、それが人間の心に備わった性質である限り、これは致し方ないことなのだ。子どもをけしからんと怒っている親だって、実は自分の親に対して多かれすくなかれ似たような忘恩行為をしているものである。(ヒエー、私のことだ!)
もちろん5-1は親子関係に限らない。配偶者の一方が他方に与える恩恵も、国家が国民に与える恩恵も同じである。ただ親子関係が一番例としてわかりやすいのだ。
この5-1の恐ろしい点は、恩恵を与える側は、感謝されないだけでなく、その恩恵を与えることを中止した際には明白な怒りや恨みを向けられるということである。
このような現象が起きる原因は、快楽の条件5に示した通りだ。自分がすでに得たものは快楽ではない。快楽とは、自分の持っているものの、時間微分値がプラスの場合である。得たときにしか心地よくない。
さて恩恵を与えていた側が恨みを買うといった不幸が生じないためには、彼が感謝を一切期待しないという覚悟をするしかない。あるいはその恩恵を与える行為を一切止めてしまうことだ。マア、当たり前といわれればそれまでだが。
大体援助を継続している側は、たいてい一度は援助を止めてしまいたいと考えるものだ。しかしそれはなかなか出来ないことである。それはそうすることへの後ろめたさ、あるいは恩恵を受ける側からの恨みの大きさへの恐れからである。それほど援助される側の「当たり前感」は大きいのだ。ただしそれを思い切って行ったとしても、それは本人が思ったほどには、極悪非道のことには思えない。そう、援助する側が勝手にうらまれることを恐れているに過ぎない。
ただし親子の関係には、もう一つ深層があると思う。それは出生をめぐる親の後ろめたさ、あるいは負債の感覚だ。生まれたばかりの子どもを胸に抱いた親は、その子が独り立ちするまで面倒を見ることは当然だと思うだろう。それは一方的に(まさにそうである)断りもなく(これもその通り)この世に送り出した親としては当然のことと思うだろう。
親は身勝手な行為の結果として子を世に送る。その時点で子供にまったく罪はない。すると子に降りかかるすべての不幸は、親の責任ということになる。これは考え出すと実に恐ろしいことだ。そうやって人類は生命を受け継いできたのだ、実は自分自身も親の勝手な行為の結果だ、ということを忘れても、この感覚を持ち続ける親は多いように思う。特に日本の親についてそれはいえるのだ。