2010年10月19日火曜日

フランス留学記(1987年) 第六話 見通しはにわかに明るくなった(中)

実は今週は分析学会があるので、留学記の掲載はラクである。こんな留学記でも、同様の経験をした方は同一化できるようである。私が10年以上もまじめに全会期間を出席しているのはこの学会だけである。

(承前)幾人かの患者を担当し、少なからずデイホスビタルに出入りするうちに、私はそこでの治療の在り方にいろいろ考えさせられた。それまでもネッケル病院精神科のデイホスビタルの在り方についていろいろ耳にすることがあったが、私は自分で関わっている訳ではないのでその通りなのか分からない、というのが本当の気持ちであった。しかし患者と話し始めて先ず感じたことは、私自身がいつも感じていた、デイホスビタルへ足を踏み入れる際の敷居の高さ、スタッフと接する際の抵抗感とほぼ同様のものを、一部の患者達も感じているという事である。私が患者を持つ際に、決まってギリベール氏は言った。「この患者は操作的だから巻きこまれないように気を付けろよ。」私はその種の失敗なら経験がない訳ではない、と答えつつ、いつも同じことを言われることに戸惑った。
しかしやがてデイホスピタル全体の雰囲気に管理的な色彩が強い事に気がついた。ある種の甘えや依存的な態度に対しては容赦しないというスタッフ達の態度が常に感じられた。例えばある聲の女性の患者が躁転し、病棟じゅうの人にひっきりなしに話し掛け、付まとって困らせるという事が起こる。その時作業療法士のイザベルや看護婦のシルビイはうんざりした、という表情を露骨に出し、彼女を叱りつける。その様な対応の仕方は私が日本で経験したものとは確かに違っていた。よくよく考えれば、それはまさにパリの冷たさそのものの現われと言えた。言葉の不自由な者に対して手を差し伸べない、徹底したまでの個人主義が彼等の思考の基本にある。彼等にとって精神的な病故に苦しむ者に対して、必要以上に寛容な態度で接する正当な理由などない、と考えるのは自然なことであるとも言える。
私が病院で過ごす時間を有意義なものにすることが出来たのは他にも理由があつた。それはフーション医師の、週三回の午後の診察に立ち会うことが出来るようになった為である。フーション医師は以前ネッケル病院で働いていた時期があり、今でも当時からの患者を、火、木、金の午後に診療していた。私は半ば偶然の事から同医師の指導が受けられるようになった。今から思えばよくぞ彼はここまで面倒を見てくれたと思うほどである。彼が午後の診察の際にみる数人の患者に私は殆どすべて立ち会えた上に、その前後にはその患者の治療経過等についてかなり長く話し合う機会を持ってくれた。
私はフーション医師の、穏やかな、かつ率直な治療態度に惹かれた。私とは一世代近くも年が上にもかかわらず、私の述べる考えに対してもそれを静かに聞いてくれた後、彼自身の考え方を分かりやすく伝えてくれた。一緒に診察された患者達には迷惑だったろうが、( 勿論彼等には事前に承諾は得ていたのであるが) 私はベテランの医師の診療の様子を見ることが出来、そのうえフランスの精神医療についてかなり突っ込んだ質問をする機会を初めて持てた。何しろ医長のギリべール氏はいつも忙しく動き回っていて、やっとつかまえて話す機会を得ても、私が口篭ろうものならすぐに何処かにダイヤルを回し始める具合だったし、ぺリシエ教授に至つてはまず秘書に面会の予約をして二、三週間は待たなくてはならなかった。
始めのうちは午後の時間を有効に使う手段であったこの週三回のフーション医師の診察の見学も、私の仕事が徐々に出来ていくうちに時間の都合をつけつつ顔を出す、という様になって来た。デイホスビタルで担当する患者も三人となり、夕方まで常にすべき事がある、という事もまれではなくなった。私にすればこれは歓迎すべき事だった。それまでは病院で暇を持て余して本を読んで過ごす、という事が多かったからである。パリの病院に研修に来ていてその臨床を体験しないのではつまらない。一年間しかないのであるから、むしろ出来るだけ多くのものを見聞きすべきかとも思うが、私は一度に多くのことができない。すると結局今しか出来ないこと、つまり病院で出来るだけ実際の診療に顔を突っ込み、分からないことを恥を恐れず臆面もなく聞く、ということになる。
これが「今しか出来ないこと」なのは多分に私の年齢に関係がある。病院のスタッフは幸いにも30才の私を、20代前半のエクステルヌ達と同様に扱ってくれ、私も変な面子を気にせずにすむのである。しかし一方では半人前扱いをされることに対するフラストレーションが溜まってくる。もう少しましな形でここにいることが出来たら、と常に考えている。
但しこの苦労を先延ばしにして、例えば40代になってから同様のことをする気にはなれない。別にこの苦労をどうしても体験して置かなくてはいけないような必然性は見あたらないが、この苦労を避けて終わって仕舞う、というのも嘘のような気がする・・・・・・。このようなことを今後フランスに来る明確な予定がないにもかかわらず考えてしまうところが自分でもおかしい、という自覚はあるのだが。このようなことを考えながら、私は時には全く仕事もないにもかかわらずに遅くまで病院に残っていることが多かった。そのような私を見て、ギリベール医長は不思議そうな顔をするだけだった。(続く)