2010年10月9日土曜日

フランス留学記(1987年) 第3章「少しはやれそうな気がした?」(中)

今日はうっとうしい雨。これから神戸に出張である。

(承前)しばらくデイホスピタルに通っていた私は、あるエビソードをきっかけにそれを控えるようになってしまった。それは何よりも私の立場が不安定であることが原因であった。医師として振舞うのであれば、その様な形で漠然と患者の中で過ごすことは彼等に不安を与えるようであった。フランスでは日本に比べて、患者は医師をより近寄りがたい存在と感じるようである。どの医師も病棟で患者の中に入って漠然とそこで過ごす、ということはなかった。それは医師の側にそのつもりがなく、むしろ患者との距離を積極的に一定に保とうとしているのと同時に、患者の側にとっても医師が常に傍に居るのが決して心地の良いものではないからであろう。それに患者の中に溶け込み、自由なコミュニケーションを試みるには何といっても私の言葉のハンディが大きかった。
ある日、私がデイホスピタルに居ると、来る途中に町でアメリカ人に侮辱を受けた、という女性患者が入ってきて私を見て、「外国人は無作法で、もう顔も見たくないわ!」と猛然と怒りをぶちまけて来た。そして彼女はあることを問いつのってきたのだが、私は彼女の言いたいことが理解できずに、反応が遅れた。すると彼女は「あなたが答えないのは一体どういうことだ」と更に語気を荒らげて来た。ちょうどその時私は電話に呼ばれてそこを立ち去つたが、その時以来急に患者の集っている中に足を踏み入れることに抵抗を覚えるようになった。少なくとも彼等に、単に一個人として接することは、医師としての役割を通して接することより却って難しい、ということを認識したのである。
このエビソードは私にとっては辛いものであったが、これまたいろいろ考えさせられる材料を与えてくれた。もともとフランスで患者と治療的に接することは私の第一の目標であり、その為に何かすこしずつ出来ることはないか、と私はいつも考えていた。しかし外来診療をする他の医師に立ち会うことがあっても、私ひとりに任せられる可能性など全く考えられず、またたとえ任されても到底出来るわけがない、という気がしていた。何しろ患者に急に話し掛けられただけでもドキドキして仕舞っているのである。
わたしは常々精神科医として患者と接することは、特に精神療法をも含めたアプローチを目指す場合にはフランス語に熟達し、言葉による意志伝達に関する問題がほぼ消えたところからようやく始まるものと考えていた。そうであるとすれば、患者と何らかの形でじかに接することから出発するしかない。私が患者との接触をデイホスビタルで行なったように側面から試みたのもその様な意図があったのである。しかし当然ながらその様な高度のフランス語のレベルに達することについては絶望的にならざるを得ず、従って患者を精神科的に「診察」することが出来るかどうかについては一方ではかなり悲観的であった。従ってこのデイホスビタルの一件で私はいよいよその様な希望から違ざかる様な気がした。実は後に述べるように事態は思ったよりも容易に進行したのであるが・・・・・・。
ネッケル病院に通い出してから二ヶ月経った。私は依然として戸惑いながら、なんとかそこでの活動に顔だけは出している、といった感じで過ごしていた。一方では日本の新宿あたりの景色を思い出して、無性に帰りたくなる。ふと空を見上げて小さな飛行機を見出しても、それに乗ってすぐ帰りたいなどと思って仕舞うのである。それは一部にはここでの病院通いの苦しさから来ている。時間が経って行くのはある意味では嬉しく、またある意味では苛立たしかった。つまり、それだけ日本に帰る日が近付いたという意味では嬉しく、しかし相変らずの失見当識を正当化する理由が徐々になくなっていく、という意味では困ったことであった。もう、「ここについたばかりですから何も分かりません。」という言いわけがあまり通用しなくなってくる時期なのである。
いつもその様な言いわけを用意して生活する必要が一体有るのかと言われそうであるが、事実私のパリでの生活全体は、いつも「最悪の事態」をいかに避けるか、というテーマのもとにあったようである。その「最悪の事態」とは、例えばフランス人との会話で二度聞き返しても意味が掘めず、そこでコミュニーケションが中断せざるを得ない、といった事態である。相手は一回目はこちらが偶然聞き漏らしたものとして同じスピードで始めの言葉を繰り返す。しかしそれでも分からないと、(大体この辺で私は分かった振りをして仕舞うか、もう一度問い返そうか迷い出すのであるが)彼等はこちらの言葉の力の足りなさに気付き、少し言い方を変えてくる。不幸にしてそれでも分からなかった場合は、彼等は大抵肩をすくめて「もういい」、といつてこちらを見捨てるか、突然英語に切り替えてくるか、ということになる。
いずれにせよもう対話者間の対等な関係というものはなくなり、私は「言葉も分からないのにフランスにいることの責任」をすべて負わされるのである。フランス滞在が二箇月を超えたからといって、そこでの生活に慣れて来た、という実感などはなく、ただ見聞きするものが目新しいという代わりに、もう沢山だ、といううんざりした気持ちの方が先に立つようになってくる。逆に街を歩いていて日本に関する事柄に出会うと無性に嬉しくなる。私はすっかり愛国主義者になってしまった様だ。(続く)