東京圏の日本人のフランス語屋やフランス語オタクなら誰でもお世話になるアテネフランセ。御茶ノ水駅を降り、水道橋に向かうと、もう少しで水道橋に向かう坂の始まりにアテネフランセはある。(じゃ、どうして水道橋から行かないか、と突っ込まれそうだ。確かに距離はそのほうが近いだろう。でもアテネフランセは、やはり御茶ノ水を降りていくのでなくては雰囲気が出ない。)
御茶ノ水駅の新宿よりの出口を降りて、細い歩道を歩く。たくさんの受験生が途中の駿台予備校に吸い込まれていくのを尻目に、アテネフランセに向かう。アテネフランセのシンボルでもある「モジェ・ブルー」というテキストを小脇に、「受験生はかわいそうだな。本当に自分から勉強したいことが出来ないなんて。」とか呟きながら。
30年前と変わらないアテネ・フランセの外観 |
実際アテネフランセに通う人間は、変わり者である。ここに通うということは、フランス病が病膏肓に至っているといっていい。だってわざわざ時間と安くもない授業料をかけてフランス語の専門学校に行き、しかも何の資格を取るわけでもないのだから。フランス語が好きだから、という以外に目的はないのだ。フランス文学やフランス語の専門家になるのだったら、大学の文学部のそれぞれの科で勉強すればいいだけの話だ。だからアテネフランセに通うということは、みなある種の負い目やそれとは裏腹の誇りを共有することになる。(私のように医学部の授業を時々サボって行ったりすると、なおさらだ。)自分の専門とは異なるものを学んで、それだけで満足する人々が共有するある種の秘密。どこかのバンドの追っかけみたいなものだ。事実若くてハンサムな男性のフランス人教師には、一種の追っかけのような女性たちが前の方の席に数人いたりした。
懐かしいモジェ・ブルーの画像を見つけた |
私は21歳の春から通い始め、医学部時代はほとんど毎週土曜日に通ったわけだが、やはり私のフランスへの憧れは、フランス語へのそれが大きな要素を占めていたように思う。圧倒的に美しい響きをする。しかし同じフランス語でもカナダで話されているもの、あるいはフランスの南部の訛が入ったものは、美しいと感じられない。パリで話されるフランス語。ひとつの文化の中心で話される言葉だから美しいと感じるのか、とも問うてみる。 しかしそれにしては、例えばロンドンでの真ん中で話されるコックニーといわれる英語を聞いて、私はぜんぜん美しいとは思わないのである。(むしろアメリカ中央平原で話される「標準的な」英語の方がよほど美しい。)しかしこれは好みの問題といえば、それだまでだが・・・。
フランス語の音にあこがれた私は当然シャンソンも好んで聞いた。しかしピアフのようなシャウトするような、のどを鳴らすようなフランス語ではだめだ。最初にイブ・モンタンの囁くような「枯れ葉」を聴いたときは、旋律のようなものが走ったのを覚えている。もう一段階深くフランス語に惚れた瞬間だったのだろう。
(なんだか、書き出すとアテネフランセに行き始めたときだけでもう長くなって飽きてきた。しばらく別のテーマにいくかもしれない。)