・・・というテーマで書かせていただこう。実は先生のことは二ヵ月前に書いたことがあるが、結局先生のよい思い出に終始してしまった。その後考えたのである。人はどうして●●●文にほめ言葉や賞賛する文ばかりを書くのだろうか? もう少し等身大の姿を描いてもいいのではないか? ●●を鞭打つのはよくない、という理屈はわかるが、すでに●●●●ない人に、初めてはっきりものを言えるということもあるのだ。
私の●●先生の思い出は複雑である。いろいろなご相談をしたことはある。いろいろほめていただいたことがある。でも私には先生からバッサリ斬られた、という思いもある。それは私を教え諭す言葉だったのかもしれない。でも同時に「斬られた」感も残ったのである。
実は同様な思いをした人は結構いるようなのである。●●先生と個人的な接触が始まる前に、よく先輩から次のような話を聞いた。●●先生がかなり厳しいことをおっしゃる。それが衆目の前で起きるから、当人は泣きそうになる。しかしその後に先生はそっといらして、優しい言葉で力づけてくれる、というパターンである。まるで罪悪感でも持っているようだ、とその先輩は言った。
私に起きたのも同様のことであったが、この先輩の言葉を聞いていてそれを予想していたというわけではない。むしろ体験してからその先輩の話を思い出したという順番である。(普通学会の大家から聴衆の面前でおしかりを受けるというようなことなど、だれが予想するだろうか?)
10年以上も前のある学会でのことだった。私は指定討論演題、というカテゴリーにエントリーをしていた。学会で結構長い時間を使うセッションで、それだけたくさんの聴衆を集めることにもなる。私はまだ海外にいて、その学会に対して門外漢だということもあり、あまり深く考えることもなく、指定討論演題を提出したのだが、今思えば大胆なことをしたものである。
その指定討論を引き受けてくれたのは、その学会の大御所A先生である。そして私の症例の発表の後、やんわりと私の視点が斬新であること、そのユニークさが学会員の一部にアピールするであろうことをのべたあと、それこそ真っ向から私の論点を否定しかかった。詳しいことは忘れたが、私の論点そのものが防衛の産物だ、というような主張である。この学会ではよくある議論の流れであるが、あたかも発表者のやってきたことを全否定しかねないような、論調である。その結果としてA先生が討論を終えた後の会場はしばし騒然となった。しかし私はA先生の主張をある程度は受け入れつつ、「いや、わかってくれる人は分かってくれるさ…」などと少しは余裕があった。そして確かに会場には、私の主張に賛意を示す意見もちらほら出ていたのである。そのときである。●●先生がおもむろに手を挙げたのは。(以下続く)。