2010年5月22日土曜日

(承前)
この食行動と食欲の分離というテーマについては、その典型がアノレキシアの患者さんである。彼女たちの中は、もはや食べたいから食べる、というパターンが崩れてしまっている人たちが多い。時間が来たから決まった量を食べる、という感じであり、決しておなかがすいたからそれを満たすだけの適量を、というわけには行かない。それでいて唐突に食欲がよみがえって、パン屋で売り物のパンをつかんで夢中で頬張ってしまい、警察が呼ばれたりする。
彼女たちの例は極端で病的だと思われるかもしれないが、こんな研究もある。アメリカでベトナム帰還兵を対象に(うろ覚え、要出典)、半分は通常の食事の半分にカットして与え、対象群と比較した。するとこのグループは、通常の量の食事を与えられたグループに比較して、実験が終了した後もはるかに多くの食行動異常がみられたという(要出典)<← お前は Wikiか?>。
これは授業でも結構出す例なので恥ずかしいが、それでもこの研究が面白いのは、食べるということについて意識しだすと、食欲というのがわからなくなるということが、一般人でも起きうるということである。
私自身の例。大学時代に70キロ近くなってしまい、短時間に60キロまで落としたが、医師国家試験を控えてナーバスになっていた時期でもあり、この現象が起きた。食べてもおなかがすかない。というよりいの中のものが消化されずにずっと残っているという感覚があった。お腹がすかない、という現象が、こんな具体的な形で起きるのが面白かった。(私の場合は、これは「常に何かを食べていたい」の裏返しとして起きた、ということと関係あるだろうか?)
えーっと、何でこんな話をしていたのかわからなくなった。そうだ。欲望や願望は、認知により変わる、ということだった。何か食べたい、という願望は、実は「食べたいという願望を持ってもいいのだ」「食べたいと願うことは安全なのだ」という認知を前提としているところがある。そしてこれが、先ほどの「快感査定システム」の話につながる。行動に先立ち、私たちはそれを起こした際の快、不快を査定する。これは認知的なプロセスだ。そしてここには、あらゆる認知の偏向やゆがみが反映される。ここで食べるということへのゴーサインが出ないと、私たちは空腹になってものを食べるという自然な行動ができなくなってしまうということだ。