2010年5月25日火曜日

今日書くような内容は、読んでいて退屈かもしれないし、そう思うと論文などの活字にもできない。第一そのような論文を受け取ってくれるところはないだろう。しかし誰も読まない日記に書き綴る根気はない、ということで、このような読者が数人程度のブログに書くことになる。後から削ったり、●字にすることもできるし。ただしこう書いた上で付け加えるのだが、結局「私はいかに行動を起こすか、how we make ourselves tick 」という問題が結構重要なのだ。知的であり、学歴も高い人が身の処し方、決断の仕方でまるで子供のようなレベルの力しか発揮しないことを、私達は政治の世界で見ているではないか。
★  ★  ★  ★  ★  ★  ★  ★  ★  ★  ★  ★  ★  ★  
(承前)
このように考えると、私たちがPES(快感査定システム)で査定しているのは決して近い将来の肉体的な苦痛や快感にはとどまらないことになる。腹筋を続ける際には、その際の苦痛、あるいはそれに伴うかもしれない快感(筋トレ’s high??)、それをやめてしまうことに伴う快感、やめることによる苦痛、が関係している。一つのことを実行する前には、それを実行する際の体験を先取りすると同時に、しない場合の体験も先取りすると思うのだ。そしてそこでは精神的な快、苦痛の方がよほど大きな影響力を持っているといっていい。最後の50回目の腹筋を行うことで得られる快感は、「やり遂げ感」であり、これは実に大きいだろう。だから50回と決めて、途中、例えば20回くらいで苦しくなってやめる人はたくさんいるだろうが、49回まで行って、最後の一回をやらない人は、完全に疲弊しきった人でなければ、おそらくほとんどいないだろう。それは山登りに行って、頂上まであと一歩、というところで「もう飽きたから登るのヤーメタ」と引き返す人がほとんどいないのと同じだ。それに50回の腹筋を終えないと、その後のビールはお預けだ、と決めている人にとっては、先取りの中にはビールの味まで含まれるからややこしい。
ここでもう一つ重要な要素が加わる。それは自分が近い将来どのような行動をとるかについての結論を出すことそのものによる利得(あるいは出さないことによる苦痛)である。これは50回目の腹筋運動をするかしないか、AがいいかBがいいか、という問題ではなく、どちらか一方に決めるということに伴う快、ないしはそうしないことによる苦痛である。「Aを行うことによる快マイナス苦痛」、「Aを行わないことによる快マイナス苦痛」の両方を比較してちょうど釣り合ってしまった場合、人はより慎重になるだろうが、そのどちらかを選ばないでぐずぐずしていること自体を「決断力のない奴だ」と揶揄される場合には、ともかくも何かを決めなくてはならない。その場合は、AかBかのいずれかに決定する、ということを決めて、あとは頭の中でサイコロを振るということになる。こうなるとかなり高度な思考プロセスということになるし、実際いかに知性的で教養があってもこ子に問題を抱えている人は少なくない。タイミング良く決断を下すこと。それは何を決断するかということと同様の、ないしはそれ以上の価値を持つことは、私たちの社会では決して少なくないのだ。