ところで土居の甘えの発想はどこに由来するのであろうか。土居は「甘えの構造」の冒頭で、甘えという問題を意識するようになったのは、米国でのカルチャーショックであったと述べている。その流れで先ほど紹介した渡米時の異文化体験を語っているのだ。もちろんこれを額面通りに受け取ることもできる。
しかしこれには別のとらえ方もあるようだと少なくとも私は考える。それがこの甘えのもととなった考えは、土居の人生のかなり早期に芽生えていたのではないかということだ。この件との関連で小林隆児と遠藤利彦との編著「甘えとアタッチメント」の中で小倉清が書いている内容が興味深い。
「[土居先生の話では]生後3か月の頃、自分の母親がおっぱいを与えるのをいやがったということをはっきり覚えていたという。そしてどうしてなんだろうと考える癖がついたという。このことを80歳の頃、初めて語ることとして車中の小倉に伝えたという。」
小倉清・小林隆児 (2012) 対談「甘え」理論と臨床を語る. (小林隆児、遠藤利彦編 (2012) 甘えとアタッチメント─理論と臨床実践. 遠見書房. に所収)
小倉清 (2012) 「甘え」理論と土居健郎の生涯.(小林隆児、遠藤利彦編 (2012) 甘えとアタッチメント─理論と臨床実践. 遠見書房. に所収)
土居がこの記憶について晩年まで語らなかったということも含めて非常に興味深いエピソードである。そこで同書の別の個所で、もう少し正確に小倉の記述を追ってみる。
「土居は母親についてのごく早期の記憶を持っていて、それをまるで秘め事のように私に語ったことがある。その頃、私は赤ちゃんと母親の早期のやり取りについて興味を持っていて、そんなことを土居に話したりしていたのであった。その記憶とは土居が生まれてまだ三か月くらいのことではなかったかというのだが、授乳をめぐっての記憶であって、どういうわけか母は自分にオッパイを与えるのをいやがっていたというのである。そこで自分はなぜ母がそんなにいやがるのだろうかと訝ったという。それ以降、自分はどんなことについてもなぜ?どうして?と考えるくせがついたという。」(p93)
もちろんこの問題が甘えと直接つながっているかは分からない。また生後3か月の記憶をずっと持っていたという土居の話にどこまで説得力があると考えるかは人それぞれであろう。おそらく甘えについての考えは、土居の人生の様々な場面でヒントを与えられ、徐々に形を成していったのであろう。しかしそれでも私は土居が晩年になってから小倉に個人的に語ったとされる上述のエピソードはとても意義深く感じる。私自身も甘えについて考える上で、それが土居が幼少時から自らの養育上の体験に根差したものとして理解することでようやく腑に落ちる思いがするのである。
そしてオッパイが自分の母親から少なくとも積極的、ないしは自発的に与えられなかったことへの問いが、彼の甘えの理論の本質にあるという思いを強くする。それは少なくとも彼がカルチャーショックを受けた体験と本質的につながっているからである。
あらためて甘えとその本質にある「受け身性」
以上の考えをもとに、甘えとはそもそも何かについて、私なりに定義してみたい。土居自身の甘えについての定義は上に紹介したが、私自身は次のように言い表すことが出来ると考える。
「甘えとは、相手に対して持っている願望が、その相手から積極的に満たされるのを想定することである」。
甘えをなるべく平易でわかり易く解説することに努めた土居なら、私のこのような言いかえに賛同してくれると思う。なぜならすでに述べた土居自身の定義である「相手の愛をあてにして、それによりかかること」を、これは平易に、しかしもう少し丁寧に言い換えたものに過ぎないからだ。
ここで「想定する」という表現がミソである。土居の定義の「あてにする」、あるいは「よりかかる」という表現にあるように、それは相手からの願望充足を半ば前提にし、当たり前のこととする態度のことを言っているのだ。それではなぜ相手からの積極的な態度がそれほど重要なのか。
このことも私自身の日常的な経験を振り返ればおのずと理解されるだろう。相手から進んで何かをしてもらった時に、私たちは一番うれしいと感じるからである。こちらから何かをねだって、その結果、いわば条件付きで何かを施されるのと異なり、掛け値なしの愛情と感じるからである。それはそこに「無条件の愛情や親切さ」を感じさせるからだ。
だれでもこちらから要求して誕生日プレゼントをもらうよりは、そのことを覚えてくれていてもらう方がうれしいのは当然だこのことを私は、「甘えと無条件の愛」という論文でかつて論じたことがある(岡野,1999, Okano,2024)。
さてこの相手から積極的に願望が満たされることにより感じられる無条件の愛情ということについては、もちろん日本文化に特有の問題とは言えないであろう。実はアメリカ人も彼らが好むサプライズパーティという形でそれをお互いに表現しているのだ。だから言う前から相手に何かをしてもらうことの喜びは文化を超えたものなのである。
ただし土居は初めて米国に渡航し、そこでカルチャーショックの形で体験したのは、そのような考えがあたかもアメリカ人の一般人や精神科医たちには欠如しているかのようであるということだった。なぜ欧米では「甘え」の基本に流れるこのメンタリティが日常においてみられないのかはとても大きな問題であるが、ここではそこには触れずに先に進もう。問題は土居がこの文化差の問題をどのように扱ったかであるが、それがマイケル・バリントとの交流で、彼の理論の影響であった。
さてこのような甘えの概念の本質をある種の受身性としてとらえることが出来るのは論を待たないであろう。「相手の愛をあてにして、それによりかかること」はまさにその受け身的な態度と言える。ただしそこにはある種の積極性ないしは能動性も含まれることになる。なぜなら「あてにして,よりかかること」そのものは本人が選び取った行為と言えるからである。ちょうど「待つ」という受け身的な行為は同時に積極的に選択されたという意味では能動的でもある。その意味で私は以前から、甘えは能動的な受け身性 active passivity と表現できると述べてきた経緯がある。