2026年4月6日月曜日

バウンダリー論 推考の推考 8

 5.バウンダリー上では遊びが生まれ、トラウマも生まれる

 これまで検討した私たちのバウンダリーの体験は、緊迫感をはらんだ綱渡りの様に感じた方がいてもおかしくないだろう。個人の中ではそれを超えるか超えないかの葛藤が体験される。そして二者の間で成立しているバウンダリーは、それをめぐって両者の間の様々な思惑が働く。それはハラハラする危険と隣り合わせの体験となることが多い。またバウンダリーそのものの破壊や修復が生じる事も少なくない。あたかも二つの紛争中の国の境目の様に、そこでは侵攻と反撃が様々なレベルで間断なく起きている可能性があるのである。

 このような性質を持つバウンダリーは、そこで遊びや創造性が発揮され、その意味で極めて豊饒で生産的な場となる。しかしまたバウンダリーは、いきなり踏み越えられることで様々な不幸、トラウマが生じる境域でもある。バウンダリーが孕むそれらの数多くのテーマについては、この短いエッセイで論じつくすことは不可能であるが、最後にそれらのいくつかをかいつまんで述べてみよう。

 先ずはバウンダリー上での遊びや発見について考えよう。幼児が慣れ親しんだ我が家の庭から一歩足を踏み出すという体験を想像しよう。まだ自宅の庭の垣根を超え出たことのない彼は、その日は少し浮き浮きした気分で、いつも遊びなれている庭のほんのちょっと外を見てみたいと思う。そこで家事に忙しい母親の目を盗んで門の隙間から、足を踏み出す。そこには見慣れぬ景色が広がり、出会ったこともない人が歩いている。彼は一歩、二歩とさらに踏み出すだろう。一方の好奇心や探求心と、他方の不安や恐怖の双方が働いつつ、ジワジワと彼の行動範囲が広げられていくのだ。しかしこの段階では、幼児はこれを明らかに楽しんで行っている。これは遊びの範囲での体験であり、いざとなったら走って帰れる距離に自宅があるからであろう。だからちょっと勇気を出してもう何歩か進んでみる。すると近所の家の庭に広がる花畑に遭遇する。色とりどりの花、香しいにおい! こうして彼はバウンダリーを少しだけ踏み出すことで新たな世界を発見したのである。

(以下略)

2026年4月5日日曜日

バウンダリー論 推考の推考 7

  4.何がバウンダリーに力を及ぼすのか

 上の例は何を示しているのか? それは名目上のバウンダリーが引かれていることで、それをめぐる患者と治療者の間のやり取り、ダイナミズムが生じるということだ。そこには彼らはバウンダリーを厳密に守り切れないという現実がある。もちろん毎回開始時間の2時に一秒の狂いもなくドアがノックされ、治療者が間発入れずにドアを開けるということが繰り返されれば、そこには何も生じようがない。それはテレビ放送で、2時までの番組と2時以降の番組のディレクターどうしでもめ事を起こしようがないのと同じだ。しかしそこに生身の人間が関与している以上、両者の綱引きが生じ、実際の開始時間は名目上のバウンダリーの近傍で揺らぎつつ、その時々で一種の妥協の産物として「柔軟に」決定される。それが治療設定の柔構造的な在り方なのだ。そしてここが大事なのだが、その駆け引きを通して、実はそのバウンダリーの実態はもっとしっかりとした、太くしなやかなものとなって行くのだ。そのバウンダリーのマネージメントを通して、治療者は患者に対して自らを示す。心穏やかでかつ毅然とした態度を内に秘め、いざとなったら自己防衛のできる人間としてそこに存在し続けるのだ。

 このように描かれた治療者の態度を私は柔構造的、と言い表しているが、もしそうでなく、到着時刻への遅れを治療抵抗として扱うという治療構造の一般的な考え方はどのように言い表せるだろうか? それを私は柔構造との対比で剛構造的(すでに示した、固くぶれのない性質の)と表現する。剛構造的な考えを持つ治療者は患者の少しの遅れを「今日は3分遅れましたね」と指摘するだろう。その質問自身はニュートラルであったとしても、患者は咎められている感じ、治療者を血の通っていないロボットのように感じられるかもしれない。
 ここで私が日本を発つとき頭にあった「治療抵抗であるか偶発的かは、トレーニングを積めばわかる」というS先生の教えに戻りたい。それに触発されて私は渡米して精神分析のトレーニングを受けることを思い立ったのだった。そしてかりそめにもトレーニングを終えた私が40年前のその時の私に対して言うとしたら次のようなことだろう。

 「確かに患者が3分遅れて到着した時、それが偶発的か、治療抵抗かが分からないという事は今でも起きているよ。はっきり言えば、精神分析はその種の直感を鋭くする方向にはあまり役立たないのだ。でもそのどちらかを見極めることはそれほど重要なことじゃない。それは多くの場合そのどちらとも決められないからだ。」

 つまりこう言えるのだ。精神分析のトレーニングは、直観を鍛えることにはならなかった。ただしその種の出来事を柔構造的に扱うことが出来るようになるのである。

 ところで名目上は剛構造的なバウンダリーの何が柔構造的な運用のされ方をするかは、そのバウンダリーの性質によることになる。揺らぎようのないバウンダリーは確かにある。治療の行われる場所やその料金などはそれに相当するだろう。
 しかしそれ以外の要素の多くは揺れ動く余地を持っているし、それは常に交渉により変わりうるものだ。治療終了時刻にしても、患者が気分が悪いから早退することもあるだろうし、治療者が少しうっかりして終了時間を遅くしてしまうこともある。つまりそれが柔構造かどうかは、それが両者によって動く余地があるものとして扱われるかにより違ってくるのである。

 ところで柔構造については次のように一般化できるだろうか。

 ある種の決まりや秩序に対する私たちの態度は二通りある。一つは「それを破ってしまえ、無視してしまえ」という自由奔放さであり、もう一つは「それを破ったら大変な事になるかもしれないので、しっかり守らなくては」という警戒の念だ。私たちの行動はことごとくこれらの二つの意志の間のせめぎにより成立している。ウォーコップ・安永は前者を「生きる行動 living behavior」と「死を回避する行動 death-avoiding behavior」と表現し、分析家のホフマンは前者を「自発性」、後者を「儀式」としたのだ。

 私たちの個人的な生活における行動はことごとくこの種のせめぎあいの産物である。起床する時は目覚まし時計の鳴る音に触発されて寝床を飛び出そうという力と、目覚ましを無視してもうひと眠りしたいという願望がせめぎ合う。スナックを食べる時は、「もうダメ!」と制する声と「もう一枚!」という囁きがせめぎ合う。

 しかしこれは二者関係においては一段と複雑なものになる。相手があることで、押したり引いたりする力の要素は「対人化 interpersonalize」されるのである。先に「患者と治療者にとって境界はそれぞれにとって一方向性である」と言った。患者は時間を減らす自由はある程度あるが(「今日はお先に失礼します」)、それでも「あまりに早く退出するとさすがにまずいだろう、まるで治療をサボっているように思われてしまうから」という抑制がかかる。また時間を超えて話し続けることには「それをしては駄目」という内なる声以外にも、治療者の側からの実際の抵抗に出会うだろう。そしてそれと逆向きの方向性を治療者は有する。つまり治療者は時間を延長する方向への自由度を持つが(といっても患者さんが急いで帰宅しなくてはならない場合、あるいは分析家の顔をそれ以上見たくはない場合には別であるが)、患者さんの時間を奪うような形で早めに切り上げることはよほどの事情がなと出来ないであろう(治療者が何かの身体疾患の発作を起こしてそれ以上セッションを継続できなくなった場合、或いは火災が発生して緊急避難をしなくてはならない時など)。この場合自由度の高い行動ほど「自発性」に基づき、自由度が低い行動ほど「儀式的」で超自我により(「お互いの時間を奪ってはいけない」)規定されたものであることがわかる。

 ホフマンがこの種の議論を精神分析に持ち込んだおかげで、分析家たちは精神分析という場を極めてダイナミックで複雑な出来事の舞台として認識できるようになったのではないだろうか。


2026年4月4日土曜日

バウンダリー論 推考の推考 6

1.バウンダリーの起源

 始めは「バウンダリーの歴史」というテーマで原稿をお引き受けしたが、実はバウンダリーとはとんでもなく広く深い概念であり、その歴史にまでさかのぼって論じることは自分には無理と判断した。私は精神科医であり、かつ精神療法及び精神分析を専門とするが、それらの分野にも深く関与するテーマであるため、バウンダリーに関する臨床的な立場からの考察となることを最初にお断りしておく。
 最初にバウンダリーの問題一般についてであるが、その起源は私たちの身体性に根差しているといえる。身体を有する私たちは自由に動ける一定の範囲を常に必要とする。常に収まりがいいような「身のおき所」を探しているのだ。そしてそのすぐ隣に他者がいて同じような空間を必要とするなら、たちまち境目、バウンダリーの問題が生じる。そしてそれは身体を持つ生命体であれば、進化上のどのレベルにおいても関わってくるテーマだ。

 たとえばコブダイは自分のテリトリーである岩礁の周りを常に泳ぎ回り、そこに侵入してくる魚を厳しくチェックする。コブダイにとっては自分の岩礁はパーソナルスペースの一部だろう。あるいはサバンナの野生動物の中には自分の家族を構成するグループの縄張りを示すために草に尿をかけ、においでマーキングをして歩くものがある。
 他の個体と共存するためには、バウンダリーの問題は最初から関わってくるのだが、それは生物としての私たちにも日常的に体験される。新幹線や飛行機で隣の乗客との間に設けられた細い肘掛けを奪い合うという状況は誰でも体験しているだろう。

 バウンダリーはまた社会生活を営む上での利便性の面でも重要だ。一日の時間をいくつかに区分する、一年をいくつかの月に分ける、といった手続きは共同生活では必然となろう。絶海の孤島で一人で自給自足の生活を営み、好きな時に寝て空腹を感じたら食物を求める生活には、これらのバウンダリーはほとんど意味をなさないはずだ。
 こうしてバウンダリーは生物としての私たち、社会に生きる私たちにあらゆる形で浸透していく。それは不文律として、道徳律や法律として、条例や校則や社則や服務規定として、さらには宗教における教義として、あるいは国境や土地の境界線として網の目の様に私たちの生活に入り込んでくる。しかし大抵は、なぜそのようなバウンダリーが存在するのかについてあまり考えなくなっていくのだ。


2. 私にとっての問題意識としてのバウンダリー・・・「患者が3分遅れる」


 ここからは精神科医であり、精神分析家としての私の経験に即した臨床的なバウンダリー論となる。バウンダリーについての私の意識が生まれたのは精神分析と出会った時である。精神科医としての新人の頃、私はかねてから気になっていた精神分析を学びたくて精神分析研究会に参加し始めた。そして当時の精神分析の大御所の小此木啓吾先生の門下生であるという先輩医師のS先生の指導の下に参加者が持ち寄るケースの検討を行っていた。そしてこのバウンダリーという問題に出会ったのだ。
 ある時私たちの一人が報告した患者さんが分析治療に遅刻したという話になった。S先生は次のようなことを言った。「まずこの患者さんが定刻の2時に3分遅刻してきたのに注目しなくてはならないよ。この人はこうすることで無意識に治療に抵抗していることになるんだ。まずそれを扱わなくてはならないね。」それを聞いたときは私にはハッとして、目からうろこが落ちた気がした。私はかねてから人の心に興味を抱いていたが、それまでは日常的な些細な出来事に無意識的な意味を見出すことはなかった。そしてしばらくはこの患者さんの遅刻のことが頭を離れなかったが、そのうち疑問にぶつかった。

(以下略)

2026年4月3日金曜日

バウンダリー論 推考の推考 5

 4.バウンダリー上では遊びが生まれ、トラウマも生まれる。

 これまで検討した私たちのバウンダリーの体験は、緊迫感をはらんだ綱渡りの様に感じた方がいてもおかしくないだろう。そこでは個人の中でそれを超えるか超えないかの葛藤が体験される。そして二者の間で成立しているバウンダリーは、そこを越えるか超えないかに関して両者の間の様々な思惑が働く。それはハラハラする危険と隣り合わせの体験となることが多い。そして実際にそのバウンダリー自身の破壊や修復が生じる事も少なくない。あたかも二つの紛争中の国の境目の様に、そこでは侵攻と反撃が様々なレベルで間断なく起きている可能性があるのである。

 しかしこのような性質を持つバウンダリーは、またそこで遊びや創造性が発揮され、その意味でこれほど豊饒な場はないと言ってもいい。そしてバウンダリーは、そこがいきなり踏み越えられることで様々な不幸、トラウマが生じる境域でもある。バウンダリーが孕むそれらの数多くのテーマについては、この短いエッセイで論じつくすことは不可能であるが、最後にそれらのいくつかをかいつまんで述べてみよう。

 先ずはバウンダリー上での心地よい体験について考えよう。幼児が慣れ親しんだ我が家の外に一歩足を踏み出すという体験を想像しよう。まだ自宅の庭を出たことのない彼は、その日は少し浮き浮きした気分で、いつも遊びなれている場所のほんのちょっと外を見てみたいと思う。そこで家事に忙しい母親の目を盗んで門の隙間から、足を踏み出す。そこには見慣れぬ景色が広がり、出会ったこともない人が歩いている。彼は一歩、二歩とさらに踏み出すだろう。一方の好奇心や探求心と、他方の不安や恐怖の双方が働きつつ、ジワジワと彼の行動範囲が広げられていくのだ。しかし幼児はこれを明らかに楽しんで行っている。これは遊びの範囲での体験であり、いざとなったら走って帰れる距離に自宅があるからであろう。だからちょっと勇気を出してもう何歩か進む。すると近所の家の庭に広がる花畑に遭遇する。色とりどりの花、香しいにおい! こうして彼はバウンダリーを少しだけ踏み出すことで新たな世界を発見したのである。
 しかしこのようにバウンダリーをめぐるワクワクする体験は、いとも簡単に恐怖体験に移行する可能性がある。家の周囲の探索に夢中になり過ぎていた彼は、ふと振り返ると自宅が見えないほどの遠くにまで来てしまったことに気がつく。そしてどの方角から歩いてきたかもわからなくなっていることを知る。思わず「ママ―!」と叫んでみる。しかしこれまでは何があっても飛んできてくれる母親の姿はない。彼は取り返しのつかないことをしてしまったことを知る。自らの慣れ親しんだ安全なエリアをはるかに踏み越えていることを知ったその幼児の恐怖心や寄る辺のなさはどれほどだろうか?そこでは自分の身を守るすべを失い、世界が終わるかのような体験をすることになる…これがトラウマの原型である。

 私はこれを書きながら、他方では幼な子の姿が見えなくなって半狂乱になっている母親の姿を想像している。彼女はすぐに半開きになっている門扉に気がつき、近所を探し回る。もちろん彼はそれほど遠くに行っているはずはない。道端で泣いている息子を見つけて駆け寄り、抱きしめる。トラウマは深刻なレベルでは起きなかった。しかし自然界ではこうはいかない。母親からはぐれたライオンの子は、すぐにでもハイエナの餌食になり命を落としかねないのだ。← なんでこんな余計な文章を書いているのだろう? それはともかく‥‥

 この様にバウンダリーを超える体験は様々な「事件」につながる可能性がある。それは喜びや興奮を伴う場合もあれば、恐怖や絶望を生むこともある。そしてそれはバウンダリーという状況が生む一つの宿命でもある。すでに述べたように、バウンダリーとは二つ(以上)のちからの均衡により成り立つ。それは一見動かないように見えて、実はその内側に大きな力が加わって、互いを支え合っているというところがある。ちょうど二人の力自慢の腕相撲の様に、あるいは力の拮抗した二つのグループの綱引きの様に、そのバランスが少し破綻したことから一挙に勝負が決まってしまう可能性があるのだ。

 バウンダリーのその種の性質は、臨界状況、ないしはリミナルスペースとして現代科学の一つの大きなテーマとなっているが、今回はそれに触れることは出来なかった。

2026年4月2日木曜日

バウンダリー論 推考の推考 4

  上の二つの例は何を示しているのか? 一つは終了時間についての例、もう一つは匿名性・自己開示の例であった。両方ともある種のバウンダリーが引かれていることで、それをめぐる二人の間のダイナミズム、やり取りが生じている。しかしそれはバウンダリーを厳密に守る事に徹することによって、ではない。常に開始時間の2時に一秒の狂いもなくドアがノックされ、治療が開始されるのでは、何事も起きないであろう。しかしそこに生身の人間が関与している以上、ブレが生じ、治療者も患者も常にバウンダリーを念頭に置きつつ、それをめぐる綱引きが生じる。そして実際の開始時間はバウンダリーの近傍で揺らぎつつ、「柔らかく」決定される。それが治療設定の柔構造的な在り方なのだ。そしてここが大事なのだが、その駆け引きを通して、実はそのバウンダリーはもっとしっかりとした、太くしなやかなものとなって行くのだ。そうしてそのバウンダリーのマネージメントを通して、治療者は患者に対して自分の生きた、安全な存在を明らかにしていくのである。心穏やかでかつ毅然とした態度を内に秘め、自己防衛のできる人間としてそこに存在し続け、その姿を患者に示すのだ。

 このように描かれた治療者の態度は柔構造的、と言えるが、もしそうでなく、境界へのチャレンジを常に治療抵抗として扱うという方針を持つ治療者ならどうだろう? それは剛構造的な治療態度という事になるが、患者は少し時間が遅れたり、治療者のプライバシーに少し踏み入ったような質問をした時には、患者はすぐに指摘されたり、ピシャッと跳ね返されたり、あるいは何事もなかったかのように無視されたりするだろう。「私の来週のキャンセルの理由をどうしてお尋ねになるのですか?」という質問はそれ自身はニュートラルであったとしても、患者は咎められている感じがするだろう。あるいは治療時間を過ぎても話が終わらないと、剛構造的な治療者は「はい時間ですね!」と強制終了させられることになる。患者には治療者は血の通っていないロボットのように感じられるかもしれない。

  ここで私が日本を発つとき頭にあった「治療抵抗であるか偶発的かは、トレーニングを積めばわかる」というS先生の教えに戻りたい。それに触発されて私は渡米して精神分析のトレーニングを受けることを思い立ったのだった。そしてかりそめにもトレーニングを終えた私が40年前のその時の私に対して言うとしたら次のようなことだろう。

 「確かに患者が3分遅れて到着した時、それが偶発的か、治療抵抗かが分からないという事は今でも起きているよ。はっきり言えば、精神分析はその種の直感を鋭くする方向にはあまり役立たないのだ。でもそのどちらかを見極めることはそれほど重要なことじゃない。それは多くの場合そのどちらとも決められないからだ。」

 つまりこう言えるのだ。精神分析のトレーニングは、直観を鍛えることにはならなかった。ただしその種の出来事を柔構造的に扱うことが出来るようになるのである。

ところで剛構造的なバウンダリーの何が柔構造的な運用のされ方をするかは、そのバウンダリーの性質によることになる。揺らぎようのないバウンダリーは確かにある。治療の行われる場所やその料金などはそれに相当するだろう。
 しかしそれ以外の要素の多くは揺れ動く余地を持っているし、それは常に交渉により変わりうるものだ。治療終了時刻にしても、患者が気分が悪いから早退することもあるだろうし、治療者が少しうっかりして終了時間を遅くしてしまうこともある。つまりそれが柔構造かどうかは、それが両者によって動く余地があるものとして扱われるかにより違ってくるのである。

 ところで柔構造については次のように一般化できるだろうか。ある種の決まりや秩序に対する私たちの態度は二通りある。一つは「それを破ってしまえ、無視してしまえ」という自由奔放さであり、もう一つは「それを破ったら大変な事になるかもしれないので、しっかり守らなくては」という警戒の念だ。私たちの行動はことごとくこれらの二つの意志の間のせめぎにより成立している。ウォーコップ・安永は前者を「生きる行動 living behavior」と「死を回避する行動 death-avoiding behavior」と表現し、分析家のホフマンは前者を「自発性」、後者を「儀式」としたのだ。

 私たちの個人的な生活における行動はことごとくこの種のせめぎあいの産物である。起床する時は目覚まし時計の鳴る音通りに起きるという力と、目覚ましを無視してもう一休みしたいという願望がせめぎ合う。スナックを食べる時は、「もうダメ!」と制する声と「もう一枚!」という囁きがせめぎ合う。

 しかしこれは二者関係においては一段と複雑なものになる。相手があることで、押したり引いたりする力の要素は「対人化 interpersonalize」されるのである。以前、「患者と治療者にとって境界はそれぞれにとって一方向性である」と言った。患者は時間を減らす自由はある程度あるが(「今日はお先に失礼します」)、それでも「あまりに早く退出するとさすがにまずいだろう、まるで治療をサボっているように思われてしまうから」という抑制がかかる。また時間を超えて話し続けることには「それをしては駄目」という内なる声以外にも、治療者の側からの実際の抵抗に出会うだろう。そしてそれと逆向きの方向性を治療者は有する。つまり治療者は時間を延長する方向への自由度を持つが(といっても患者さんが急いで帰宅しなくてはならない場合、あるいは分析家の顔をそれ以上見たくはない場合には別であるが)、患者さんの時間を奪うような形で早めに切り上げることはよほどの事情がなと出来ないであろう(治療者が何かの身体疾患の発作を起こしてそれ以上セッションを継続できなくなった場合、或いは火災が発生して緊急避難をしなくてはならない時など)。この場合自由度の高い行動ほど「自発性」に基づき、自由度が低い行動ほど「儀式的」で超自我により(「お互いの時間を奪ってはいけない」)規定されたものであることがわかる。

 ホフマンがこの種の議論を精神分析に持ち込んだおかげで、分析家たちは精神分析という場を極めてダイナミックで複雑な出来事の舞台として認識できるようになったのではないだろうか。

2026年4月1日水曜日

バウンダリー論 推考の推考 3

  以上の例に挙げた治療開始時間は精神分析において比較的わかりやすいバウンダリーの例と言える。しかし精神分析には目に見えにくい、それ自体をバウンダリーとして把握しにくいものもあり、そこでも互いに逆方向の「半柔構造」が存在してそれが治療者と患者の力動を生んでいる。その例として治療者の匿名性の問題を考えよう。   精神分析における匿名性の原則とは、治療者が原則として自分の個人的な情報を意図的に患者に伝えない(自己開示をしない)という原則である。これはフロイトが最初に唱えたことで、多くの古典的なやり方で治療を行う分析家にとっては今でも重要な原則である。そしてこれを患者と治療者の間に引かれた線引き、バウンダリーに関わる問題と考えることができる。  私はそれに対して自己開示は必要に応じて「あり」だと考えるが、私の主張は、フロイトの考えを真っ向から否定するものではない。フロイトの提示した匿名性の原則は、治療者の匿名性は常に守られるべし、というニュアンスがあった事に対しての代替案を意味する。決して「むやみに自己開示をすべし」ではない。  現代では匿名性の原則は「治療者は必要な時以外は自己開示をするな」という程度の理解をされており、これは私の「治療者は必要な場合には自己開示せよ」という主張とあまり変わらないことを言っていることになる。この意味でのバウンダリーも、それが剛構造的にそこに示されることで初めて二者の間の精神力動的な場を提供するのだ。  一般の読者にはこの匿名性の原則が意味することはピンとこないであろうから、さっそく例を示そう。先ほどこの原則を「治療者は必要な時以外は自己開示をしない」と言い換えたが、実際は患者は治療者のことをいつも知りたいと思っているわけではない。それどころかむしろ逆のこともあろう。つまり患者は治療者の個人的なことは聞きたくないかもしれないのである。  私があげる例は次のようなものだ。治療者が患者に来週のセッションをキャンセルする必要があると患者に告げるとしよう。実は彼の親戚に不幸があり、その日に告別式が開かれることになったのだ。その際患者に急なキャンセルの事情をどこまで話すかは結構微妙な問題だ。治療者にはそのような急なスケジュールの変更がよくあり、患者がそれに慣れているという場合には、特にあらためて患者にその理由を告げる必要もないだろう。  しかし治療者の健康問題とか家庭のさまざまな事情を心配する患者にとっては、キャンセルの理由を知ることは一時的には不安の軽減(場合には逆効果?)に繋がるだろう。また患者によっては「きっと私があまり困らせるから会いたくないからではないか?」と疑う場合もあるかもしれない。すると治療者の側から、それが杞憂であるという一つの手掛かりが与えられるだけで、その患者はほっとするだろう。

(以下略)

2026年3月31日火曜日

バウンダリー論 推考の推考 2

 3.バウンダリーについての考えの深化と「治療的柔構造」の概念

 私が渡米以降に体験したことはひとことでは言えないものの、あえて言うならば、「バウンダリーはいくらでも侵犯される(乗り越えられてしまう)」ということだった。精神分析の構造やバウンダリーは、口頭で伝えられたり文章で書かれたりする際にはしっかり引かれる傾向にあるが、実際にはしばしば平気で破られている。誤解を受けやすいが、私は「バウンダリーは破られてナンボのもの」と思うようになった。それは踏み越えられることで生命を保っていると言ったところがある。その意味で「そもそも境界は生き物だ」、といった方がいいのかもしれない。

 私が精神分析を本格的に学ぶ前に考えていたことは、すでに述べた。それは患者が治療構造を破る際に、どのような場合にそれが無意識的な抵抗に由来するかについて、直観や一種の嗅覚を身に着けるためには、精神分析的なトレーニングが必要であるということだった。
 しかしその後40年がたった今では、私は患者との臨床を通じても、そして自己探求の為の数年間の教育分析を通しても、そのような独特な嗅覚が得られたようにはどうも思えない。(あまり言いたくないことだが。)いや、以前より少しはましになっているのかもしれない、ぐらいは言っておこう。そして私は「神は細部に必ずしも宿らない」という世界観を持つようにもなった。しかしそれとは別に、治療構造の重要性を再認識し、それを「治療的柔構造」として活用する方法を知る事になった。その意味での知恵はしっかりついたつもりである。

 私は実は渡米するころまでには、小此木先生の治療構造論を少し疑うようになっていた。「先生、治療構造を厳密に守るというのは建前でしょう?」とまで思うことがあった。「精神分析的にやるということは、いちおう決まりは守りましょう、という事ですよね」程度のことではないかと考えるようになっていた部分がある。実際小此木先生自身がセッションの開始や修了の時間をあまり守っていないといううわさも聞いていたし、本人もそのようなことをおっしゃっていた。「イヤね、僕はこういう立場だから、精神分析はちゃんと構造を守ってやりましょう、というけれどね。本当は‥‥」みたいなことを精神分析の講義でよく口にされていたのだ。
 しかしそのうちに、別の意味で小此木先生の教えは正しかったと思うようになった。先生の教えは私の理解では次のようなものであった。「構造をしっかり決めておくから、そこからのズレ、例えば一分早いとか、一分遅いとか、いつもぴったりくるとかのことが識別され、そこに表される治療抵抗などの意味を解釈できる」。つまりここでは治療者はバウンダリーを提供してそれに対する患者の反応を見る観察者なのである。
 しかし私のバージョンは少し違う。

「バウンダリーはそれ自体が明確に定まっていることで、それをめぐる微妙なやり取りが患者と治療者の間に繰り広げられる。つまりバウンダリーはそこである種の場(フィールド)を提供するものなのだ。ボクシングならボクシングリング、相撲なら円形の土俵があってこそ、そこでの独特のやり取りが展開するのである。そしてそのバウンダリーをめぐる駆け引きには患者だけでなく、治療者もまた参加しているのである。


以下省略