2025年11月17日月曜日

ヒステリーの歴史 大詰め 3

 さいごに

  FNSの歴史について、特にそれがヒステリーという精神的な病として扱われた時代にさかのぼり、以下に現代的なFNSの概念に至ったかについての経緯を概括した。ヒステリーは身体的な表れの体裁をとっていても、本質的には心の問題であると考えられていた長い時代があった。そして精神医学の診断基準も概ねそれに沿ってきた事も示した。DSM-Ⅲ 以降、それはある種の心因ないしはストレス、あるいは疾病利得があり、それが精神の、そして身体の症状をきたすという性質を持っているものと理解されていた。これはそれまでのどちらかと言えば詐病に近いような扱いからは一歩民主化された形と言えるであろう。

 しかしそれが真の、あるいはより現代的な理解に基づく概念として生まれ変わるためにはFNSの概念の成立が必要であった。そしてその概念と共に精神科医たちは朗報と言える「身体科からの歩み寄り」に浴する一方では、心因という概念や精神疾患と脳との関連についての再考を迫られていると言えるのではないか。

 ではこのことは将来何を意味しているのだろうか?それはかつての認知症や転換がそうであったように、精神医学からFNSが消え、例えば脳神経内科に所管が移行するということであろうか。それはそれで構わないのかもしれないが、私はそれでは十分ではないと考える。というのもFNSを身体疾患として純粋に考え、扱う際にも精神療法的なアプローチの有効性が不可欠であるからだ。そしてその根拠となるのが、FNSに見られる心的なトラウマの関連である。FNSにおいて心的トラウマの関連が大きい以上、それに対する精神療法的なアプローチは必須となる。そしてそのような形でFNSは今後とも精神医学と身体科の両者により治療すべき対象と考えられるのである。その意味でFNSの存在が精神医学と身体医学を結ぶ懸け橋としての意味を持つことはとても重要であると考える。


2025年11月16日日曜日

ヒステリーの歴史 大詰め 2

 この心因の問題の削除とともにD項目である「症状が身体疾患では説明できないこと」についても、DSM-5やICD-11では変更が加えられている。具体的には「その症状と、認められる神経学(医学)的疾患とが適合しない」という表現に変更されている。ここでDSM-5やICD-11では、FNSにおいて医学的な所見が見られないことを特に否定しているわけではない点が重要である。しかしそれは陰性所見(医学的な診断が存在しないこと)ではなく、陽性所見(症状が医学的な診断と適合しないこと)を強調する形になっている。この違いは微妙だが大切である。この要請所見の例としてStone はさらにFNSに関して「このような『陽性』検査所見の例は何十例もある」p.351)とし、その例としてHoover testを挙げている。また Stone は機能性の痙攣を正常な脳波の存在から導くという例が挙げられている。

ちなみにこの陽性所見という言葉の説明として、DSM-TRでは次のような説明もなされている。「むしろ陽性の症状及び兆候(苦痛を伴う身体症状に加えて、そうした症状に対する反応としての異常な思考、感情、および行動)に基づく診断が強調される。」(p.339)  

たくさん手直しをして、全面書き換えに近くなっている。

ところでDSM-5には次のような注目すべき記載がある。「[ 身体症状群は]医学的に説明できないことを診断の基礎に置くことは問題であり、心身二元論を強化することになる。」「所見の不在ではなく、その存在により診断を下すことが出来る。」「医学的な説明が出来ないことが[診断の根拠として]過度に強調されると、患者は自分の身体症状が「本物 real でないことを含意する診断を、軽蔑的で屈辱的であると感じてしまうだろう」。(DSM-5, p.339)
 ここに見られるDSM-5やICD-11における倫理的な配慮は、C項目「症状が意図的に産出されないこと」そして「疾病利得が存在しないこと」という項目についての変更にもつながっていると理解すべきである。
 このうち「症状が意図的に産出されないこと」は、FNDだけでなく、他の障害にも当然当てはまることである。さもなければそれは詐病か虚偽性障害(ミュンヒハウゼン病など)ということになるからだ。そしてそれを変換症についてことさら述べることは、それが上述のヒステリーに類するものという誤解を生みかねないため、この項目について問わなくなったのである。
 またすでにDSM-IVの段階で削除された疾病利得についても同様のことが言える。現在明らかになりつつあるのは、精神障害の患者の多くが二次疾病利得を求めているということだ。ある研究では精神科の外来患者の実に42.4%が疾病利得を求めている事とのことである(Egmond, et al. 2004)。従ってそれをことさら転換性障害についてのみ言及することもまた不必要な誤解を生みやすいことになる。
 さらには従来変換症について見られるとされていた「美しい無関心 a bell indifférence」の存在も記載されなくなった。なぜならそれも誤解を生みやすく、また診断の決め手とはならないからということだが、これも患者への倫理的な配慮の表れといえる。  ただし実際にはFNDが解離としての性質を有するために、その症状に対する現実感や実感が伴わず、あたかもそれに無関心であるかの印象を与えかねないという可能性もあるだろう。その意味でこの語の生まれる根拠はあったであろうと私は考える。

2025年11月15日土曜日

ヒステリーの歴史 大詰め 1

この論文、いよいよ締め切りが迫っているが、まだまだおかしいところがある! 

FNDと心身二元論

 この変換症からFNDの移行の持つ意味について改めて考えたい。先ずはFNSという用語の意味についてである。このFNDの「F」とは機能性 functional の意であり、器質性 organic の対立概念である。すなわち「神経学的な検査所見に異常がなく、本来なら正常に機能する能力を保ったままの」という意味である。したがってFNDは「今現在器質性の病因は存在しないものの神経学的な症状を呈している状態」という客観的な描写に基づく名称ということが出来よう。それに比べて変換症という概念には多分にその成立機序やその成立に関する憶測が入り込んでいたことになる。その憶測ともいうべき症状が変換症の診断基準から除外されたのがFNSであるが、それらを以下にまとめよう。

まず診断基準としてはDSM-Ⅲ,IV の以下の項目が削除された。

B項目 心理的要因が存在すること

C項目 症状は意図的に産出されないこと

D項目 症状は身体疾患によっては説明されないこと

なお、DSM-ⅢではB項目に含まれていた「疾病利得が存在すること」はDSM-IVではすでに削除されている。

 このFNSへの移行はどのような意味を持っているのだろうか。FNDの概念の整理に大きな力を発揮したJ.Stone (2010) の記述を参考にしよう。彼は本来 conversion という用語は Freudの唱えたドイツ語の「Konversion (転換)」に由来し、彼は鬱積したリビドーが身体の方に移される convert ことで身体症状が生まれるという意味でこの言葉を用いたとし、問題はこの conversion という機序自体が Freudの 仮説に過ぎないのだという。そしてそれは心因(心理的な要因)が事実上見られない転換性症状も存在するからであり、この概念の恣意性や偏見を生む可能性を排除するという意味でもDSM-5においてはその診断にはこのB項目の心因論を排したFNSという概念や名称が導入される必要があったのである。


2025年11月14日金曜日

特別寄稿 2

 フランス、アメリカでの体験

 私自身の体験から出発するしかない。私はフランスのパリで一年間、米国で4年間、精神科のレジデントトレーニングを合計数年にわたって受けたが、それは私たちの学年の6~8名のクラスの討論に次ぐ討論であった。あるレクチャーが行われたり、あるケースが提供されるとまずは十分なディスカッションの時間が与えられる。というか授業の主体はクラスメートの間でのディスカッションというニュアンスさえある。そして講師がディスカッションをクラスに開くと、そのあと日本での同じ機会のように,しばらく(あるいは延々と)沈黙が流れるということはまず欧米ではありえない。グループ全体がそのような沈黙を一体となって消しにかかるという感じで、必ず誰かが挙手をしたり口火を切ったりして、ディスカッションが始まる。そしてしばしばその全体の流れに方向性が見いだせず、様々な意見が出て応酬があり、それで授業が終わってしまうということがある。いったいこのディスカッションに意味があるのか、皆が様々な意見や感想を持つということが分かっただけで、その誰が正解を握っているかということが分からずじまいになってしまい、これでは授業を受ける意味がないのではないか、とさえ思ったことを覚えている。


2025年11月13日木曜日

特別寄稿 1

 「特別寄稿」は私の好きなジャンルである。なぜなら自由なことを書いても比較的許されるからだ。ということで私はこのディスカッションに突然引き込まれたが、おかげでずいぶん刺激を戴いた。work discussion WDと書くことにする。まずはWDについての私の乏しいながらの理解から。
 WDは私の理解では精神分析をルーツとし、グループの環境で学びを高めるためのプログラムである。そしてこの動きは日本の心理臨床においてかなり前からあり、「日本ワークディスカッション研究会」なるものまで存在している。その理事長であられる野村誠先生の文章を引用しよう。

WDは、1980年代種多様な援助職の観察力や対人スキル向上に貢献したという。そしてその可能性に気づいた臨床家によって、より幅広い援助状況に応用されていくようになって行った。そして臨床心理士養成大学院など、さまざまな領域の対人援助職に対して実践されはじめ、心理臨床の事例検討会やグループスーパービジョンにも応用されて、その汎用性が注目され日本ワークディスカッション研究会が設立されたとのことだ。しかしその運営、グループのファシリテートには固有の難しさがあることが分かってきたという。

さて私はたまたまワークショップで長谷先生や若狭先生の実践の発表を知って,「ああこれが今話題になっているWDなんだ,と問題意識をかろうじて共有させてもらうところから始まった。実は自分でもとてもよく知っている、あのプロセスのことなのだ。ある事例が発表されて様々なデイスカッシェンが行なわれ、時にはドラマか展開するプロセス。精神科医や心理士としてのトレーニングで、そして学会や勉強会でのケース検討会でも何度となく経験し、時には胸おどり、時には深い疑問を抱かされるあのプロセス。場合によっては年若い発表者が助言者、参加者のみならず司会者にまで助け舟を出してもらえずに火だるま状態になり、聴衆のひとりとしても歯がゆい思をしたこともある。特にその発表者の主張に一理も二理もあるように感じる時はその一方的なデイズカッションの流れをあまりに不条理と感じる一方では,「若手はああやって鍛えられるのだ、自分だってその道を通ってきたのだ」というベテランのコメントも聞こえて来たりして「そういうものなのか…? でもこれって一種のハラスメントではないか!」と更に疑問を抱く体験もあった。そうして症例呈示は言わば「ハイリスクハイリターンで何が起きるがわからないもの」として自分の中ではその理想的なあり方について考えることはペンデイングにしていたが、この問題の検討の機会を与えてくれるのがこのWDの議論であるということが分かったのだ。

2025年11月12日水曜日

ヒステリーの歴史 改めて推敲 11

 まとめ

 

 FNSの歴史について、特にそれがヒステリーという精神的な病として扱われた経緯を示した。それは身体的な表れの体裁をとっていても、本質的には心の問題であると考えられていたからだ。そして精神医学の診断基準も概ねそれに沿ってきた事も示した。DSM-Ⅲ 以降、それはある種の心因ないしはストレス、あるいは疾病利得があり、それが精神の、そして身体の症状をきたすという性質を持っているものと理解されていた。これはそれまでのどちらかと言えば詐病に近いような扱いからは一歩民主化されたということが出来るであろう。
 そしてその間いわゆる解離性障害についての理解は大きく進んだと言える。とくにそれを精神症状を来すものと身体症状に分けるようになった。いわゆる精神表現性解離と、身体表現性の解離(Psychoform and somatoform dissociation)という概念である。

 しかしそれが真の、あるいはより現代的な理解に基づく概念として生まれ変わるためにはFNSの概念の成立が必要だったのである。そしてそれと同時に精神医学にとって朗報と言えるのは身体科からの歩み寄りだったわけである。

 ただしこのことは将来何を意味しているのだろうか?それはかつての認知症や転換がそうであったように、精神医学からFNSが消え、例えば脳神経内科に所管が移行するということであろうか。それはそれで構わないのかもしれないが、私はそうはならないと考える。というのもFNSを身体疾患として純粋に考える場合に、それに対する精神療法的なアプローチを想定しにくいという問題があるからである。そしてその根拠となるのが、FNSに見られる心的なトラウマの関連である。

FNSにおいて心的トラウマの関連が大きい以上、それに対する精神療法的なアプローチは必須となる。そしてそのような形でFNSは今後とも精神医学と身体科の両者により治療すべき対象と考えられるのである。その意味でFNSの存在が精神医学と身体医学を結ぶ懸け橋としての意味を持つことはとても重要であると考える。


2025年11月11日火曜日

大阪への出張

  119(日曜日)はあいにくの雨だったが、大阪出張であった。V製薬会社の抗うつ剤Eの日本での発売10周年記念の学術会議なるものに呼ばれて、「AIと精神療法」というテーマで講演した。司会は京都大学精神科教授の村井先生という私には勿体ないお方である。しかも私の前の演者が、かの松本俊彦先生で、相変わらずの熱のこもった薬物濫用の話が刺激的で聞き惚れてしまった。内容は詳しくは語れないが徹底して患者さん目線で,市販薬のODを過剰ににとりしまる傾向に対する苦言を含んでいた。彼の話はいつ聞いてもほぼl00%正論のように思えるが.私も彼の持つ「過激さ」をシエアしているからなのだろうか?心から声援を送りたい精神科医である。