このように考えつつ成田の著作を読むと、その基本的な考えはいくつかの項目に集約されるという思いが強くなる。それらは彼が漠然と信条にして治療をしているというよりは、彼の中では一つのメソッドとして出来上がっているという印象を受ける。それが彼の膨大な著作に表れている。つまりそれ等は『精神療法の第一歩』(診療新社、1981)『精神療法の経験』(金剛出版、1993)『心と身体の精神療法』金剛出版 1996 『精神療法の技法論』金剛出版 1999 『精神療法家の仕事 面接と面接者』金剛出版 2003 『セラピストのための面接技法 精神療法の基本と応用』金剛出版 2003 『治療関係と面接 他者と出会うということ』金剛出版 2005 『精神療法面接の多面性 学ぶこと、伝えること』金剛出版 2010 『精神療法を学ぶ 精神医学の知と技』中山書店 2011 『精神療法の深さ 成田善弘セレクション』金剛出版 2012 失礼ながらその文章には繰り返しが多いので、どれを読まなければいけないという種類の文章はない気がする。どれを読んでも切り口には同じような主張が見られる。(その意味ではコフート的、という印象も持つ。) 御存じの方も多いと思うが、成田は囲碁の達人であり、文学をこよなく愛したが本質的に理系人間である。彼の中では(周囲の目からは)成田理論とでもいうべき体系が漠然と流れでもあったように見える。 しかし成田のこれらの理論的な書を読んでも不思議と難解さはない。それはこれらがほぼエッセイ風に、experience-near に語られているからである。そして大事なのは、その根底に正直さが流れていることだ。だから読者は常に身に引きつけて彼の文章を読むことができる。 その証拠に成田には実に自分の弱さや足りなさを暴露したものが多い。自分は孤独で人と交われなかったこと。運動が苦手だったこと。分析学会誌に原著論文を掲載していないのに会長になったこと、教育分析は受けていないこと、などなどである。わざわざ言わなくていいのに、と思うほどであるが、その正直さは露悪的でなく心地よい。そしてそれと同時に彼の野心があまり感じられない。その意味での、言わば通俗的な意味での自己愛は彼には希薄といっていい。 だから彼は自分の理論を死守するために強弁するというところがない。場合によっては相手を取り込み、あるいは取り込まれ、最終的に蒸留されていったのが成田理論なのだ。そしてそこには難しい四字熟語的な概念は出てこない。何時も和語で語られる優しいものである。「こころの井戸」、「その場の雰囲気さん」、「白状する」などなど。 成田の感性にも触れようか。彼にはある種の納得感を大事にすることがあり、それは治療者が患者とどのような会い方をするかということだ。そしてそこには彼独特の感性が働いている。成田には患者を助けようとする殊勝な考え方はなかったというが、そこで何がどのように作用するかはとても興味があった。そしてその最大の理由は、彼が患者の気持ちを良く感じることが出来たからであろう。それは患者の「わかってほしい」という気持ちであり、それにどのように応えるのか、そしてそのための彼の心構えは何か、ということを追求した。成田が師匠である伊藤氏から教わった「患者の着ぐるみに入れ」はその表れであり、「その場の雰囲気さん」もそうである。
岡野憲一郎のブログ:気弱な精神科医 Ken Okano. A Blog of an insecure psychiatrist
精神科医が日常的な思いつきを綴ってみる
2026年9月24日木曜日
2026年9月23日水曜日
エナクトメントについて 1
Tジェイコブスの論文以来、エナクトメントは北米での理論と考えられているが、そこでの単一の概念は存在しないとも言われる。決して一枚岩の概念ではないのだ。それぞれの論者が異なる意味で用いているのが現状である。 歴史的にも押さえておかなくてはならないのが、エナクトメントは無意識的な事柄が意識化されることなく行動に移されたという、いわばアクティングアウトと同類の概念として扱われる傾向があり、それは当分続くであろうということだ。つまりそれはそのままでは分析空間を破壊ないし侵害するものだというニュアンスを伴い続ける。 IPAの「IRED」のエナクトメントの項目にも、ラテンアメリカでは、エナクトメントは発散や行動で分析的フィールドが侵入 invade されることとして論じられていると述べられている。つまりよくないこと、解釈などにより解消されなくてはならないこととして扱われているのだ。ただしそれがジェイコブスの論文により、治療者の側からも生じるという認識が生まれ、それがより臨床的な形で論じられるようになったということであろう。
ただし私自身が考えるエナクトメントの潜在性はそこにはない気がする。エナクトメントが何かを伝える可能性を持つこと、としてそのために何らかの「セカンドルック(見直し)」がなされる対象であるということには同意する。しかしそれが取り除かれるべきもの、という考え方には納得がいかない。それはむしろ常に起きていて、機会があったら見直しをすることでより豊かな何かを創造する可能性を秘めているということだ。そしてそれは半ば必然的に、治療者の側の「あれ?やってしまったかな?」的な気づきを伴う。何しろ患者の側の言動について「あれ?彼は何かやってしまっているかな?」は明確化や直面化などの対象になるだけであり、エナクトメントは呼ばないであろう。エナクトメントは、治療者の側の「何が起きているのだろう?(そして自分はどうしてこんな反応をしているんだろう?)」という体験を必然的に伴うわけである。その意味で「エナクトメントは治療者の側から生じる」というのはある意味では正しい理解になる。同じ現象が患者の側から生じても、それはエナクトメントと呼ぶ必要がないという意味で、である。それはほぼ確実に治療者の側の「あれ?」を持って始まるのである。そしてその「あれ?」という気付きはそれが起きない限りは非治療的かと言えばそういうわけではない。 ある例を出そう。ある時ある患者が「先生は私のことを真剣に聞いてくれていませんね」という。それに対して治療者一瞬はムッとした。もちろん表情には出さなかったが、その患者の言葉に対しての頷きは少し遅れたであろう。 この「ムッとした」はエナクトメントと言って差し支えないだろう。でもこれは治療者の無意識の何かがそうさせたのであろうか? いや、実はその治療者は「どうしてムッとしてしまったのだろう?」とは思わない。ムッとした理由はとてもはっきりしている。というより相手に責められていい心地がしないのは普通のことだ。しかしおそらくこのエナクトメントは俎上に上らない。このままでは使い道がないからだ。それは例えば患者の「あれ先生、気分を害したのですか?」という反応を待って、すなわち治療者のエナクトメントを患者の側が感じ取り、それを何らかの形で表明したことで使えるようになる。「先生、気分を害しましたか?」という言葉は必ずしも必要でないが、治療者の情緒的な反応が患者に伝わった何らかの印が必要になろう。そのやりとりで二者の間でいわば情緒的な連鎖が生じる必要があるのだ。 さてここからが私が通常のエナクトメントの概念と恐らく異なるイメージを持っている点だ。私はこれが俎上に載せられ、患者と一緒に観察されることに意義があると考える。それが治療者の側の何を意味しているかという探索は、大切ではあるが、第一義的ではない気がする。それはどういうことか?
2026年9月22日火曜日
成田先生のこと 9
しかしもちろん患者が文化を背負っている場合もある。「フロイトは神経症的な苦しみを治療により取り除かれたのちに、通常の人生の苦しみが残る、と言ったが自分の苦しみの場合はどうなのか?」など。しかしその治療者はそれをフロイトの立場に立ってのみ論じられるかと言えばそうではない。フロイト的な考えに捉われているゆえの苦しみであるならば、フロイト的な考えの外に立って考える必要も出てくるだろう。
さらに言えば、患者の話を聞いているうちに、自分に自信が持てないというその悩みは、治療者自身の「自分に自信が持てない」という、おそらく現在の自分やかつての自分が持っていた悩みに通底し、そこからは学派を越えた個人的な問題に立ち戻るのである。そしてその問題は無文化的であり、なぜならその苦しみを少しでも和らげるためにはどの学派の考えでも構わないからである。そして「どの学派でも構わない」はいたって無文化的な発想であり、それこそ喫緊の問題であり、患者がお金と時間を費やしてでも通ってくるモティベーションにもなっているのである。
ただしこの「どの学派でも構わない」という姿勢自体は、その治療者が慣れ親しんだ文化を捨てるということではなく、おのずとそれに従って考えている文化が行き当たり、それ以上進めない時にそれをいかに無視し、自分の思うままに進むかということだ。そしてそれが私が治療者の自由度として考えることである。
2026年9月21日月曜日
成田先生のこと 0
成田先生の追悼記念号に寄稿のお誘いがあったことは誠に光栄である。私は先生と師弟関係になったわけではなく、SVをお願いしたこともない。年に一度学会でお姿をお見掛けするだけであった。私は先生の著作のファンであったが、先生の本を隅から隅まで読んだわけでもない。しかし私の中での先生の位置は特別なものであった。それはどのような意味でであろう_
これを考えると、かつて先生が古沢賞をお受けになった時の記念講演のことが蘇る。私はその時の受賞講演の司会の役をいただき、 最初に 先生を簡単にご紹介したのである。その時私は最後に「成田先生は精神分析学会の良心です」と付け加えたのだ。これはその時最前列にいらした某先生が「面白いこと言うなあ」と苦笑なさったことも含めて明確におぼえている。そして今振り返っても、成田先生はやはり「分析学会の良心」であったと思うのだ。この文章は私がそれで意味するところをできるだけ簡潔にお伝えしたいと思う。
2026年9月20日日曜日
成田先生のこと 8
私が今あげた例は、治療者が自由度を失った状態を示すことを目的としていたわけではない。初診の治療者が誰でも通る道をわかりやすく示したかっただけである。もちろん治療者は経験を積む中で、治療場面で起きたことに自分ひとりで臨機応変に対応するようになるだろう。つまり彼はある意味での自由度を獲得していくことになる。しかしそれでも彼は自分が学んだ学派の考えや、過去のバイザーによる刷り込みを逃れることは出来ていないことが多い。そしてそれが本当の自由度なのかどうかは、分かりにくいことが多い。
では本当の自由度とは、目の前の患者の立場に立った場合にどうして欲しいか、そして今の自分はそれに見合った対応が出来ているかを考える能力であり、できれば両者を矛盾のない形にすべく、治療者としての自分の在り方を形成していく力ということになる。
ここで「目の前の患者の立場に立った場合にどうして欲しいか」は、もっと端的に言えば「自分が教育分析(個人セラピー)により、患者の立場に立った時に感じること」ということになる。もちろん共感性の高い治療者なら目の前の患者の気持ちに合わせることは出来るであろうが、本当にそれがわかるのは、自分が患者の立場に実際に立たされた体験を持つことである。もし過去に同様の状況で贈り物を拒絶した経験がある治療者は、自分が同じ立場で治療者に買ってきたお土産を受け取ってもらえないという体験を持った時に初めて「あの時」の治療者としての自分の対応を振り返ることになる。そして「あの時は学派の考えとかバイザーの教えに従っていたけれど、本当に治療的なのは~だったな。自分も一人の治療者として、あの時の間違いを繰り返してはならないな」という、ロジャース的な「自己一致」に準ずる考えを持つことが出来たら、その治療者は本当の意味での「自由度」を獲得できたことになる。そしてその自由とは、学派の縛り、バイザーからの縛りからの自由ということになるのだ。
2026年9月19日土曜日
成田先生のこと 7
この文章のタイトルにあるように、成田先生は比較的自由人であったと思う。精神分析学会には属されていたが、その縛りは比較的少なかったのではないかと思う。そして人間として自由であることその治療者としてのスタイルは極めて関係が深く、ある意味では治療者であるうえで決定的な資質とも関係しているように私には思われるのである。
成田先生について語る前に、この治療者としての自由さということについて述べておきたい。少なくとも我が国において、精神療法(特に心理療法とは区別せずこのような呼び方をしておく)を行う際、何らかの学派の影響を受けていないということの方が稀であると考えて差し支えないだあろう。精神科医あるいは心理士として大学教育や卒後教育を受ける時点で、例えば精神分析や認知行動療法やロジャース派の理論を学んでいるであろうし、その学派に属するスーパーバイザーについて指導を受ける可能性が高い。そして初めて患者を担当する際には、おのずとその学派で常識とされている考え方に最初は従うであろう。
たとえば精神分析学会に属し、分析関係者のSVを受けているとしたら、分析的な考え方に従った治療を行う傾向にあるであろう。その意味でその治療者は本当の意味で「自由」ではない可能性がある。もし臨床場面で一つの方針を立てようとしている時、「これは分析的にはあまり薦められないな」という考えが浮かび、その方針を変更する時、その治療者は倫理的に正しいのだろうか?
例えば患者がそれまでの週一回の頻度の面接を、次回から隔週にして欲しいと望むとする。初心の治療者ならそれをそもそも聞き入れるべきか、その要求をどのように理解するべきかということに関して途方に暮れ、それだけで身動きが出来なくなる可能性がある。急な面接頻度の変更にどのように対処するべきか?それは分析的な精神療法のテキストに書かれている事だろうか?バイザーはこれについてどのような判断を下すのだろうか?・・・・ おそらくその時に患者がどのような気持ちなのかについて考えるという作業は、それをしないということはないまでも、おそらく二の次になる。なぜなら治療者は「間違った対応をしてはいけない」という不安に駆られているからである。
2026年9月18日金曜日
私の治療方針 3
治療の実際
【解離性同一性症】
一手目 安全・安心を与える環境での支持的な精神療法(毎週~隔週)
二手目 患者の日記ないし手記の作成を出来る範囲で促し、治療に活用。
【解離性遁走】
一手目 安全・安心を与える環境での支持的な精神療法(毎週~隔週)
二手目 記憶の欠損部分に関する個人年表の作成
【FND】
一手目 安全・安心を与える環境での支持的な精神療法(毎週~隔週)
二手目 脳神経内科へのコンサルテーションないしはそれとの並行治療
いずれの項目に関しても第三手目としては併存症(気分障害、パニック、PTSDその他)の薬物的治療
私のTips
治療の経過でも診断的な見直しや併存症の確認が極めて重要となる。また症状の悪化を招くようなトラウマ因を除外ないし回避することも極めて重要である。