私の試みー「輪番制フォーマット」
さてここからは私が現在行っている試みについて書いてみる。と言っても何も特別なことではなく、おそらく多くの方が実行なさっているのかもしれない。私が用いるのは少し荒っぽいやり方だ。それは参加者に一人一人順番に発言してもらうという構造を最初に設けてしまうというものである。ただし実際に行う際は最大限の柔軟性を発揮するのだ。それをここでは「輪番制フォーマット」と名づけよう。
例えばある課題論文や課題図書を指定して、それに関するディスカッションを行うという授業の形式を考える。私はあらかじめ参加者にそれらに目を通してもらい、気になった点、よくわかったりそれに感銘を受けた点、ないしは疑問に思った点をいくつかチェックしてもらい、付箋を貼っておいてもらう。(このチェック項目は数個は用意しておいていただく。)
実際の授業では、まず私がその課題論文に関するエッセンスについて10~20分かけてレクチャーを行う。そしてその後のディスカッションでは最初から参加者に順番に彼らのチェックした部分を一つずつ発表してもらうのだ。そしてそれについて小ディスカッションを行い、そこでの意見が出なければ私がコメントして終わる。これを時間の許す限り何周も行うのだ。だいたいは3~5周くらいで修了時間 (90分の授業の場合)となる。
この輪番制フォーマットの利点は、皆の自発的な発言を待つまでの時間を省くことが出来ることだ。もちろん彼らに自発的に質問やディスカッションをしてもらえばいいのだが、効率としてはこちらの方がいいと思える場合が圧倒的に多いので最初からこの形式で始めてしまう。また小ディスカッションでは、だれでも意見を言っていいので、いくらでも彼らは「自発的」に振舞うことが出来るのだ。
さらにこの「輪番制フォーマット」では参加者に「パス」の権限を差し上げる。「私が言いたかったことを今ちょうどAさんに言われてしまいました。ちょっと待ってください。」等という時は「じゃ、もう一周するまでに考えておいてください。」と臨機応変に対応する。つまり参加者は発言を「強制」されているわけではないのだ。さらには参加者には「この論文のことに限らないでも、このテーマに関する事なら、どんな質問でもいいですよ。先ほどのAさんの発言に関することでも、何でもかまいません。というよりはその方が議論が深まっていいかもしれません」と伝える。
このフォーマットの長所は、平等に意見を言う機会を与えることが出来ること、そして出席者は課題論文を隅から隅まで読まなくても参加できるということだ。参加者はあまり恥ずかしくないような質問をすることが出来る程度にその論文を読む必要を感じるであろうし、何と言っても質問をすることでディスカッションに参加するモティベーションになる。さらには全く読んでこなかった人でも、前の質問者に触発されて意見や質問を述べることが出来るという逃げ道を与えることが出来る。
このやり方に対する一つの疑問としては「では多数の聴衆を対象にした講義ではどうするのですか?」が挙げられるかもしれない。実は大学の教養学部で学生が100人を超える大講堂での授業も多く担当したが、そこでもディスカッションの時間に沈黙に遭遇したことが何度もあった。特に単位取得のためにさほど関心のない授業に出ている学生はほとんど発言する意欲を持っていないことが多い。そこで一計を案じてワイヤレスマイクを使い、輪番制のようなことをしてみた。講義室の一番奥の、授業に身が入りにくそうにない学生たちの席に歩み寄り、先ほどまで隣とお喋りに熱中していた学生などにマイクを渡す。そして「パス」ありで質問をしてもらい、次に好きな人にマイクを渡すという方式にしてみた。すると少なくとも一部の学生たちはそれに興味を掻き立てられ、学期末のフィードバックでは「斬新な試みでよかった」と高評価をくれる学生もいたのである。
さいごに 日本型WD(?)にむけて
私のWDに関する考えをあれこれ述べたが、ここでまとめに入りたい。私はWDが授業や講義の後のディスカッションや実習の事後学習をより実り豊かなものをするためには、とても重要な概念であると考える。ただし英国産のWDの意義を十分に尊重しつつ、日本の文化にあった形で活用することが求められるのではないかとも考える。
WDにとって必須のグループディスカッションのあり方は、欧米と日本とでかなり異なる可能性があることは、私自身が体験から示した。そして日本においては自由なディスカッションを行うことへの抵抗が、WDを行う際の一つの壁となる可能性がより高いことを指摘した。WDの主たる目的である、参加者の見解の多様性や自己の見解との比較検討が重要なのは国や文化を超えて共通しているであろう。しかし日本人の場合は自由なディスカッションが成立するためには私自身にとっても必要であった人前で自説を披露する練習ないしは訓練が求められることになる。しかしそれらはとても重要な要素ではあっても、お互いの見解の多様性を知る上で本質的な部分とは言えないのではないか。何らかの形で考えをシェアできるのであれば、自由なディスカッション以外の方法を用いてもいいであろう。要は電動アシスト付きでも前に進むことが大事なのである。そこで私が示した「輪番制フォーマット」のような工夫も意味がないわけではないと考えるのだ。
私は海外生活が長い割には欧米の思想や理論がそのまま輸入される傾向には警戒の念を持つ傾向がある。WDもそのまま輸入する形では使いにくいのであれば、それを日本流にアレンジすることもまた意味がある事のように思うのだ。この特別寄稿がそのための考えの一助になればと願う。