昨日の続きである。ほぼ土居先生の文章の引用とみていただいて差し支えない。
今上にのべた「自分を見出す」分化の問題について更に説明を加えたいと思う。というのは基本的な結合の中で誕生する自分が、それまでの自分とどう異なるかを考察する必要があるからである。それまでの自分は、基本的な一致の幻覚的体験の故に起きた「不都合な分離と個人化」の結果である。したがってそこに自我意識は存するかもしれないが、それは本当の意味で自分になりきっていない自分である。このことをもっと具体的にいえば、患者は自分が他とは別の個人であることを頭では理解していても、心ではそのことに割りきれない気持を抱いている。それは場合によっては絶望的な孤独の体験であり、自己分裂を来たす自己嫌悪であり、「自分がない」という自覚であり、極端な自己中心主義であり、また誇大的な自我意識であることもある。これらは総括してナルチシズム的自我意識と呼ぶことができるであろう。これに反して、ナルチシズムの核が破れ、治療者と素直な甘えによって結ばれる体験の中で生まれる自分は、苦しさや不安や誇張を伴なっていない。それは相手と結ばれていることを知っているが、同時に相手と別の存在であることを知っており、孤独に悩まず、さりとて自己満足に浸るわけでもない。これこそバリントのいう「新しい出発」の主体となるものであり、エクスタインのいう「基本的分化」の本体なのである。
以上のべてきたことは、私がかつて発表した「自分と甘えの精神病理」と題する論文の中で記述した現象と関係があることなので、この点について若干説明を加えたいと思う。この現象というのは、多くの日本人の神経症患者が治療の過程の中で、「今まで自分がなかった」という意識に目ざめることである。私はこの意識の誕生について、それは、患者が治療関係の中で今更に廿えたい心を自覚し、しかもそれが満足され得ないということを体験することによって起きるものである、と論じた。このことを上述してきたことに照らして再検討すると、次のごとくいうことができる。すなわちこの際患者の自覚する甘えたい心は、治療の終結期に出てくるような純粋な受身的対象愛ではない。いいかえればナルチシズム的な甘えであり、したがって内的葛藤を伴なっており、対象に向かうというよりも、むしろ失われた基本的一致の幻覚的体験を再現せんとする試みである。その故にこの状態においては真の分化はまだ起きていない。それであればこそ「まだ本当に一人立ちできるかどうか」などとつぶやきながら、治療関係の継続を欲する気持ちに一時おいやられるのだ。
この心理をエクスタインは死の場合にたとえて、死に際してほとんど総ての人が自分の人生はこれで完結したとは感じないのと、似ているとのべている。ところでこの際治療者は、患者の側の終結に対する若干の抵抗にもかかわらず、あえて終結を告げることができる。勿論この抵抗はそれほど力強いものではない。患者は抵抗を威じながらも、半ば自らも終結の時期が来たことを感じている。第一、治療者との間に信頼と素直な甘えに基づく対象関係がすでに出来上がっている。そこに目覚めた患者の新しい自分に治療者は呼びかけるのである。すなわち治療者は、患者が治療者との別離に堪え得ることを信じ、この治療者の信頼に患者もまた信頼を以て応える。かくて治療関係は終結しても、治療者と患者との間の人間関係はむしろこれによって新しい段階に入るといわねばならない。それはもはや治療者患者の関係ではなく、自由な人間同士の関係なのである。このように治療の終結はそれ自体極めて重大な意義を持っているが、従来この点について考慮の払われ方が少なかったようである。