2025年10月14日火曜日

家族療法の講義

 先日は某セミナーで年に一度の、家族療法に関する講義を行った。3時間(90分×2)の講義はきついが、今回は結構自分史や米国での体験を甘えの概念に絡めて話すことが出来た。あまり質問が出なくて少し焦りも感じたが、コーディネーターの中村伸一先生とのやり取りでいろいろ有意義な時間でもあった。しかし甘えの概念。考えれば考えるほど奥が深く、興味深い。

2025年10月13日月曜日

ある「自主シンポ」に参加

 一昨日は心理臨床学会の「自主シンポ」に討論者として参加した。

「心理臨床家の養成をめぐって:育てる者と育つ者の対話から」(長谷綾子先生他)

コロナ禍を経て諸学会は、学会場での対面によるものとWEBの二本立てになり、ますます様々なプログラムが開催されるようになっている。
この自主シンポで話題になった「ワークディスカッション(WD)」はイギリス生まれの新しい試みで、症例提示に応じて参加者が自由に意見を述べ、それが第三者により評価されたり、教示を受けたりということがなく、参加者は「人によりこれだけたくさんの考えが生まれるのだ」(ただ一つの正解などないのだ)という体験を持つことが期待される。これが日本の臨床心理士や公認心理師の養成機関で活用されているのであるが、これが精神分析における乳幼児観察に発しているということが興味深い。いわばWDは集団における自由連想というニュワンスを持つわけである。
ただし日本の集団の場合、なかなか参加者がお見合いをするばかりで沈黙が流れてしまうという特徴があり、それが欧米と異なるらしいということも分かった。
今回も討論者として呼ばれることで新しいことを学ぶことが出来た。




2025年10月12日日曜日

解離症の精神療法 6

  問題はこの第2段階目である。ここでは様々な教科書が異口同音に、「トラウマワーク」が述べられる。それはそうなのだが、そう簡単ではない。これが出来ないと第3段階に行けないのではないか、という気になってしまう。しかし改めて「トラウマワーク」とは何か?それがややこしく、とても奥が深い。それを短い論文でどこまで書くことが出来るであろうか。

第2段階 トラウマ記憶の直面化、ワーキングスルーと統合

安全な治療環境が整うに従い、それぞれの人格が抱えたトラウマ記憶が語られたり、トラウマ記憶のフラッシュバックが生じるということが起きやすくなる場合がある。それらのトラウマ記憶は夢によって再現されたり、日常接するメディアや映画、小説などに触発されることもある。治療者は適切な判断をもとにそれらが再外傷体験を導かないように注意しつつ、その詳細が表現されるに任せたり、必要な勇気づけを行うことで、トラウマ記憶が徐々にナラティブ記憶に改変されることを手助けすることが出来るであろう。そしてそれによりフラッシュバックの頻度が減り、特定の人格による行動化が抑えられることにつながる可能性がある。ただしトラウマ記憶を扱う際には、人格ごとにそれについての意見が分かれたり、セッションの前後で患者が不穏になる可能性を認識すべきであろう。 なおこの第2段階でトラウマを扱うことが治療者の義務のようにとらえられることで、それが患者にとっての負担になることは避けなくてはならない。トラウマを扱うということはトラウマ記憶を抱えた人格と交流するということであり、その詳細を探る事では必ずしもないことに治療者は注意すべきであろう。


2025年10月11日土曜日

解離症の精神療法 5

 しばらくほっておいたが、着々と締め切りが近づいているこの依頼原稿。実は解離性障害の各段階のところまで来て、少し止まっている。定番のように書かれている3段階説というのが、どうもそのままでは受け入れがたい。もちろん総論(建前)として正しいのはよくわかるが、あまりに教科書的なのである。とりあえず書き出してみることにする。

● 治療の各段階

以下に主としてDID の個人療法についてISSDのガイドラインに準拠した3段階をもとにのべる。


第1段階  安全性の確保、症状の安定化と軽減

治療の初期には、何よりも安全、安心な治療関係の成立が大切である。最初は異なる人格の目まぐるしい入れ替わりが生じている可能性がある。この段階においては、患者に安全な環境を提供しつつ、表現の機会を求めている人格にはそれを提供し、それらの人格をひとまず落ち着かせることも必要となろう。治療者は患者とともに、別の人格により表現されたものを互いにどこまで共有することが出来るかについて模索する。時にはそれぞれの筆記したものを一つのノートにまとめたり、生活史年表を作成したりするという試みが有効となる。治療は週に一度、ないしは二週に一度の頻度が求められよう。なおこの段階では過去のトラウマについて扱うことにはこの段階では慎重であるべきであろう。ただしそれがフラッシュバックの形で体験されている際にはその症状の軽減のための方策は望まれる。


2025年10月10日金曜日

遊戯療法 文字化 9

 <承前>

つまりうまいフェイントは、自分の動きをコントロールでき、また相手の反応を正確に予測出来ることにより可能になる。微調整が出来るからうまくフェイントを成功させることが出来るわけである。こうして殴り合いごっこは、フェイントの応酬、磨き合いを行うことでお互いに自分自身と相手の予想の限界を確かめつつ行われ、それにより楽しく継続される。
結局じゃれ合いは楽しく予測誤差最小化のスキルを磨く絶好の機会(道具)であるということになる。

 ここでいくつかの動物どうしの戯れについて映像をお見せできれば幸いであるが、論文ではそれは無理である。しかしそこで見られるのは、遊びは小さい子供とそれと比べようがない程強大で賢い母親との間のやりとりにも胚胎している。そこではお互いに攻撃と防御を交互に行っていても、母親は決して本気で子供を傷つけることがないように自分の行動を微調整出来ているのだ。

 ある例では犬とヒヨコがお互いに信頼し合ってじゃれ合う様子が示されるが、ひよこは犬を信頼しきってその口に入るということまでやっている。そして犬はひよこを傷つけないように、口の開き加減などで高度の微調整が行われるのだ。つまりワンコの極めて高度のPEMを発揮して、自分をコントロールできているということを意味する。

 ちなみに最近の自由エネルギー原理の理論では、「予測誤差最小化」だけでなく、「程よい予測誤差」(アソび、撓(たわ)み、揺らぎ、など)の必要性や重要性が唱えられてもいる。それは「遊び(アソび)がないところに創造性や進化はないことや、「程よい量の予測誤差」こそが快感であるという点を示している。


まとめ


 精神療法における遊びの要素は、セラピストとクライエントが同じ体験を共有する「出会い」と考えられ、それを強力に支持しているのは愛着理論に基づいた精神分析家たちである。彼らはその出会いにおいては両者の脳の同期化が生じているということを強調する。脳の同期化はおそらく母子関係を通じて、さらには身体運動の、そして言葉によるじゃれ合いを通じて発揮される。(治療においてはその不足分が補充されるという意味を持つ。)脳科学的には、遊びは「予測誤差最小化」を磨き合うゲームであるといえる。

 精神療法においても他愛のない楽しいおしゃべりは、実はじゃれ合いのように予測誤差の最小化のトレーニングとなり、患者と治療者のシンクロを促進する意味があるであろう。
このように遊びによる治療には、発達論的、脳科学的な見地からも大きな可能性が秘められているのである。
 治療者はクライエントと他愛のないおしゃべりをする能力をもっと磨かなくてはならないだろう。私の本稿の最初の提言に戻るならば、「遊び心はあらゆる治療に必要な要素ではないだろうか?」「精神療法は常にプレイセラピーである」はあながち間違ってはいないと考える。

2025年10月9日木曜日

遊戯療法 文字化 8

  そしてこの最後の部分の目的は、予測誤差最小化の問題の話を回収することである。それはジャレ合いとは要するに脳の同期化のトレーニングであり、予測誤差最小化(PEM)のトレーニングの場であるということである。そこがこの発表のオリジナルな点であると自負している。

PEM(予測誤差最小化)とは?

 そこでまずPEMの持つ意味についておさらいしたい。脳どうしのシンクロとは、互いが相手の動きを予測し合うことを通して生じる。母親の心が音叉なら、子供は自分の音叉を差し出すだけで、自然と共鳴が起きるかもしれない。でも学習のプロセスはそうではない。常に相手の反応を予測しては、現実と照合して微修正をしていくという形でしかシンクロは成立しない。

 例えば自分が体を使うとか言葉を話すということを考えればわかるように、ものをつかめるようになるためには、「このくらいの方向で手を伸ばしてこのくらいの力でつかめばいいだろう」という予想をすることから始まる。しかし最初はうまく行かずに失敗をし、それを微修正していく。
言葉を話すのも同じであり、パパ、と言おうとしてもママと言ってしまい、パパ、だよ、と言われて修正する。この時も自分の出す声を予測しているからこそ、間違いに気がつく。他者とシンクロするためにも、子供はその実験台としての母親の反応を常に予測している。そして母親がその通りに振舞ってくれることで、子供は自分の母親への働きかけが予測通りの効果を生むことを知る。にっこり笑いかけた時に、母親も笑いかけてくれることを予測する。そしてその通りに母親が笑顔で返すことで、母親に笑いかけるという自分の行為の正しさを赤ん坊は確認するというところがある。

 そこで私の中に生まれたのが、「じゃれ合いは脳の同期化と関係しているのではないか?」というアイデアである。しかしこれは一見直観に反するのではないだろうか。なぜなら同期化はお互いに予測誤差を最小化することにより達成される。ところがそうして達成されたは同期化はある種の定常状態とみなせるようにも思える。他方じゃれ合い遊びでは、むしろ「意外性」であり、相手の予測を外すことにより楽しみが増すのであり、同期化と目指すところは逆であろう。
 しかし相手の予測を微妙に外すことは、むしろPEMを鍛えることにより成り立つのではないかということだ。以下に順を追って思考実験をしてみる。
 殴り合いごっこは、常に相手の予想を適度に裏切ることでスリルと興奮を味わうことが出来る。
 相手からの軽めのパンチの方向が予想出来、それを容易に避けることが出来、こちらからも相手が予想しやすいような軽めのパンチを繰り出す ←すべてが予想通りだとマンネリ化して面白くない。しかし相手が予測できない強力なパンチを繰り出すと、流血の事態になり、遊びは強制終了となる。だから軽く相手の予測を裏切るようなパンチが一番スリルがあり、楽しい。そこで互いに「本気で殴り掛かるふりをして、微妙に逸らす」とか「正面から殴り掛かるふりをして寸止めする」などのフェイントを行うことで、相手の予測を微妙に外し合うことになる。

でもそうできるためには、お互いに自分の体の動きをうまくコントロールでき、また相手の動きをうまく予想できなくてはならない。


2025年10月8日水曜日

遊戯療法 文字化 7

  実際に実験室で人間がラットとの間でRTPを行い、その間のラットの脳に起こる様々な変化を記録するという試みがなされる。それらを見るとラットは人間にくすぐられたり、追いかけられたりすると夢中になり、キャーキャーと嬌声を上げる様子がわかる。ただ私たちラットの嬌声の周波数は超音波レベルなわけで、私たちはそれを直接聞き取ることはできないということである。  このRTP、すなわちジャレ合いの研究は私たちにある希望を抱かせたことも付け加えなくてはならない。それは人間においてもじゃれ合い遊びを十分に行わせれば、その子は将来攻撃性がコントロールできるだろうという考えである。いわばジャレ合いに一種の治療的な意味を持たせるという発想である。そして実際それを証明することを試みた研究もおこなわれた。しかし話はそれほど簡単ではなく、時にはじゃれ合いがその子供の攻撃性を増すこともあり、特に父親が息子との遊びで主導権を取っていない場合だとその傾向が見られるということであった( Flanders,et al. 2009, Smith,et al. 2022)。これはある意味では当然なわけで、RTPは実際の戦いを模しているともいえるわけなので、RTPを行うということは、将来のほかの個体との実戦で勝利を収める練習でもあり、自分の攻撃性をいかに効果的に行使するかの練習でもあるからだ。そして父親とのじゃれ合いで父親が負けるということは息子の攻撃性をよけい野に放つということにもつながるであろう。

Smith, P. K., & StGeorge, J. M. (2022). Play fighting (rough-and-tumble play) in children: developmental and evolutionary perspectives. International Journal of Play, 12(1), 113–126.

Flanders JL, Leo V, Paquette D, Pihl RO, Séguin JR. Rough-and-tumble play and the regulation of aggression: an observational study of father-child play dyads. Aggress Behav. 2009 Jul-Aug;35(4):285-95. )


4.じゃれ合いは脳の同期化を鍛える場である


 このジャレ合いにどのような意味があるのか、本稿の前半の精神療法における脳のシンクロの話とどうつながるかということについて、本稿の最後にある仮説を示すことにする。

 ここまでの話を簡単にまとめると、まず心理療法における遊びの要素が、脳の同期化ということと関係しているということを示した。そして愛着理論に基づく精神療法を唱える先生方、つまりフォナギー、ショア、ホームズと言った人々が主張しているのが、精神療法とは要するに脳のシンクロ、同期化を目指すものであり、なぜならば人間の心は乳児期の愛着の段階で母親の心や脳と同期化をすることで形成されていく、ということであった。そしてその中でもホームズ先生が、予測誤差最小化(PEM)という理論を唱えていることについても触れた。つまり心や脳の同期化とは自分の動き、と相手の動きの予測をいかに正確にできるか、ということにかかっている、というのが彼の理論であった。