2025年12月22日月曜日

PDの精神療法 書き直し 1

 見立て

PDを有すると目される患者とのインテークでは、面接者はその抱えている問題の全体像の把握を試みる。患者はそのPDにより自ら困り、あるいは周囲が困っていることになる。DSM-5の表現を借りるならば、「臨床的に意味のある苦痛、または社会的、職業的、またはほかの重要な領域における機能の障害を引き起こす』とあり、ちょっとスマートな書き方になっているが、実際は同じ意味である。そしてPDについて考える際に、それが「その人の属する文化から期待されるものより著しく偏った、内的体験および行動の持続的様式でこの様式は以下のうち二つの領域に表れる。認知、感情性、対人関係機能、衝動の制御」というわけだが、実際に患者は「自分は〇〇というパーソナリティの問題がありまして・・・・」と言って訪れるわけではない。大抵は「~という事で困っています」だったり「周囲から受診を薦められました」だったりする。あるいは何らかの症状(鬱、不安など)で受診をしていて主治医からカウンセリングを勧められたと言って来談なさり、その場合には自分が有しているかもしれないパーソナリティ症には比較的無自覚だったりする。それはヒストリーを追っていった面接者が「ああ、ここにはPDが絡んでいるのではないか?」と始めに気がつく、という形をとるかもしれない。いずれにせよ主訴を同定して、見立てをし、治療方針を決める、という段取りでスムーズには進んでは行かない可能性がある。


2025年12月21日日曜日

JASD 終わったけれど 3

解離について:

問題はΦの成立が解離性の人格の形成にとって必須かということである。内海氏の立場は以下の通り。
ASDでは他者から影響を被りにくいという事はない。むしろそれが非常に強い場合もある(直観的な共鳴、体験の地続き性)。ASDの「自己質量は軽い」からこそ影響もうけ、翻弄される。自分=司令塔はそもそもΦの存在に由来するが、ASDでそれが不十分、ないしは不在であるという事は、「自分がない」状態とも言える。

このように被影響性が強く、かつΦが未形成であることは、解離性の病理を生み易い、と内海は言う。ASDで「物まねをするとその人そのものになる」という傾向が指摘されるが、それは最たるものであろう。ドナ・ウィリアムズの、他者の視線に飲み込まれるという体験も同じであろう(内海、147))。
 例えば母親の「いい子でいなさい」と言われると、それが「いい子」の人格を生むという場合を考えよう。ASDの場合、「いい子でいる」は直接入って来る。母親の心を媒介にはしていないという事だ。それは言い方を変えると、母親の考えが自分を押しのけて、もう一つの自分となるのだ。ASDにおける自己の質量は軽いから(内海)すぐ飛んで行ってしまう。ニュアンスとしては「玉突き現象」だ。

それに比べて定型者の場合、「あなたはいい子よ」という母親の心が入ってきて自己と衝突するが、質量をもっている自己は消えずに背後に回る。少なくともそこには一種の葛藤が生じる。これは同じ玉突きでも、自己は飛んでいかずに席を譲る。


2025年12月20日土曜日

JASDに向けて もう終わったけれど 2

 文脈が読めない:Φは一頭地を抜く存在であり、それがないと「文脈が分からない」という事になる。俯瞰できずに文脈に飲まれてしまうからだ。これがいわゆる「空気を読めない」という現象になる。そしてこれは(文脈を)「読む」という言い方をしてはいても直観的にわかるものである。


mind reading の有無:Φが成立しているということは他者のまなざしに触発され(ハッとして)、羞恥心を持つという体験につながる。まなざしが私たちの心を揺さぶるのは、そこから無限の共鳴状態(岡野)が始まるからだ。相手の視線を通じて対象化される自分。それは自分を対象化する(すなわち自分がある)視点と重なる。自意識を持つ人は、たとえば「自分はこんな恥ずかしいことをしていて、人には言えないな」と感じるだろうが、それを丸ごと目にするかもしれない人の存在に驚愕するのである。それゆえに他者の視線は怖いが、その自分が実は他者に対して同じことをしている。そのことを向こうも知っている。つまりそこには無限の交互性がある。例の対人関係における「無限地獄」である。
この無限交互の世界に入ることは、他者と会うという行為がそのままその他者の自分に対する経験のモニターの成立を意味する。世界は他者体験が「込み」になり、対象は「もの」(視線触発をしてこない)と他者(してくる)に分かれる。またそこで自分が存在していないと、この無限交互的な体験は「自分を失う」という恐怖を伴う体験となる。


2025年12月19日金曜日

JASDにむけて もう終わったけれど 1

 「ASDと解離」覚書 (内海健「自閉症スペクトラムの精神病理」(2015、医学書院 を基本テキストとして) 

彼の理論における中心的な概念はΦ(ファイ)であり、他者の視線(志向性)のレセプターと表現される。他者に心があるということを直感的に知ることが出来る条件。そしてそれが不足している(欠けている?)のがASD。

🔴ASDは  直観的な共鳴 sympathy 

他者(の視線)により自己は飛び散る(質量が不足しているから)。ジル・ボルト・テイラーという脳科学者の体験記が参考になる。
🔴定型者は 心を介する共感 empathy
他者(の視線)によりもともと存在している自己は背後に下がる(質量が十分だから)

ASDにおける地続きの心の例:ある15歳のASD者。持っている茶碗を落として割ってしまったが、「茶碗がかわいそう」泣き叫んだという(内海、p130)。これは茶碗に心を見ていなくても生じることであろうか?あるいは茶碗だったら心を投影できるのか。3つの表情のみのロボットや動物なら共感できるという例も知られている。つまりASDでもかりそめのΦの存在を示している可能性はあろう。しかしそれはおそらく二次元的な心なら受け入れるのであろう。つまりそこから mind reading による無間地獄に発展しないような関係性なら持てるわけである。

共同注視が出来ない:ASDにおいて欠ける傾向にある共同注視は、「他者の心を直感する際の一つの様式。もっとも基礎にあるのは視線触発だが、それは異質性に対する直観を生むことになり、彼らには脅威である。それに比べて共同注視は相互理解の礎となる、寄り添うような認識である。(内海,p 68) つまりは他者はもう一人の自分であるという認識を支えてくれる体験を生む。ちなみにワンちゃんはある意味では常にこちらの顔色をうかがうという意味では共同注視をしているかもしれない。ASDでは「他者と地続き」でこれをすることが出来ない。

文脈が読めない:Φは一頭地を抜く存在であり、それがないと「文脈が分からない」という事になる。俯瞰できずに文脈に飲まれてしまうからだ。これがいわゆる「空気を読めない」という現象になる。そしてこれは(文脈を)「読む」という言い方をしてはいても直観的にわかるものである。

2025年12月18日木曜日

JASDに向けて 4

ちなみにJASDはもう無事終わってしまったのだが・・・・・。

ASDは機能性離断症候群ではないかという説を以前紹介したことがあった(Melillo R, Leisman G. (2009) Autistic spectrum disorders as functional disconnection syndrome. Rev Neurosci. 2009;20(2):111-31.)。要するに右脳不全と左脳の過剰な代償がASDの問題の本質という説がある。こうなってくるとΦの不成立と左脳の過剰機能とは相補的ということが出来るであろう。

ところで根本的な問題。いかにして別人格が生まれるのか。やはり一つの心から「別れる」と考えてしまうところが誤解が生じる理由であると思う。ジャネの第二法則(解離性障害と他者性、p34)で言うように、パーソナリティは本体とは別個に生まれるというのが現実なのだ。(ちなみにジャネの第一原則は、「催眠において表れるのは無意識ではなく、第2の意識である」というものであった)。要するに人間の脳はいくつものダイナミックコアを生み出す能力があり、実際にできては消えているのではないか?丁度真空の中を素粒子が生まれては消える様に。そしてそのうちどれかが選択されて結晶化する。一種のダーウィニズムだ。そしてそれは体験的には一つの人格が「助けて」と叫び、それに反応する形で突然現れるのだ。そのような形で初めてDIDに見られる独特で、創造的な人格のあり方も説明できるのではないだろうか?


2025年12月17日水曜日

JASDに向けて 3

 女性にDIDが多いのはどうしてか、男性にASDが多いのはどうしてか?この問題について再考する。私は「続解離性障害」(p87)でバロンコーエンのE的(共感的)とS的(システム化が旺盛)E的という考え方を援用し、女性的なEが行き過ぎるとDID、男性的なSが旺盛だとASDになるという仮説を立てた。これは柴山のいうDIDに過剰同調性(解離の構造 p138)が見られるという見解とも通じる。しかし女性のDIDにはASD的な傾向も強い。なぜか?柴山はこれを「アスペルガーの解離群と関連している」とも言っている。一つのヒントとなるのは、ASDもまた非常に共感的だという内海の説である。つまり両者は別の意味で共感的だということである。

ASDは  直観的な共鳴 sympathy 自分は 他者により飛び散る(質量が不足しているから)。
定型者は 心を介する共感 empathy 自分は存在しているが後ろに下がる(質量が十分だから)

ところで Φの生成場所はおそらく右脳か(Alan Schore)。動物でもこれは生じる。(特にワンちゃん)しかし人間のASDの場合は、左脳による過剰な代償が伴うことが問題ではないか。動物はそれがないから、まだましであろう。

2025年12月16日火曜日

JASDに向けて 2

さて話題は解離にうつるが、問題はΦの成立が解離性の人格の形成にとって必須かと言う問題である。これはASDとDIDの合併に関して考える際に重要になる。これについての内海氏の立場は以下の通りだ。
ASDでは影響を被りにくいという事はない。むしろそれが非常に強い場合もある。それは昨日述べた直観的な共鳴という問題にも関連した、体験の地続き性に関係する。内海によれば、ASDの「自己質量は軽い」からこそ影響もうけ、翻弄される。自分=司令塔はそもそもΦの存在に由来する。それが不十分、ないしは不在であるという事は、おそらくどっしりした主人格的な存在が出来にくいという事を意味する。言い換えれば「自分がない」状態と言える。Φは一頭地を抜く存在であり、それがないと「文脈が分からない」という事になる。俯瞰できずに文脈に飲まれてしまうからだ。これがいわゆる「空気を読めない」という現象になる。そしてこれは(文脈を)「読む」という言い方をしてはいても直観的にわかるものである。
 さてこのように被影響性が強く、かつΦが未形成であることは、解離性の病理を生み易い、と内海は言う。ASDで「物まねをするとその人そのものになる」という傾向が指摘されるが、それは最たるものであろう。
 例えば母親の「いい子でいなさい」と言われると、それがいい子の人格を生むという場合を考えよう。ASDの場合、「いい子でいる」は直接入って来る。母親の心を媒介にはしていないという事だ。それは言い方を変えると、母親に由来することは分かっていたとしても、それが自分を押しのけて、もう一つの自分となるのだ。ASDにおける自己の質量は軽いから(内海)すぐ飛んで行ってしまう。ニュアンスとしては「玉突き現象」だ。(DWは人の目をのぞき込むと自分がなくなってしまい、その人になるという。(内海、147))
 それに比べて定型者の場合、「あなたはいい子よ」という母親の心が入ってきて、そこでいったん質量をもった自分と衝突をし、しかし自己は消えずに背後に回る。少なくともそこには一種の葛藤が生じる。これは玉突きでも、自己は飛んでいかずに席を譲る。
もっといい例はないか。絶対に「AはBだ」と言い張る母親に異論を唱えられないとする。ASDならごく自然にAはBだ、という自分になる。もともと自分がないから。定型だと自分は大抵自分の考えAはCを持っているから、「AはCだ」という自分は解離されることになる。
DIDにおいては他者への共感性が高いことが解離の原因ではないかと考えたことがある。
 どちらも同一化過剰ということが出来る。しかしASDの場合には直観的な共鳴sympathy で定型者は心を介する共感 empathy だというのが内海の説だ。(P24)