2025年6月30日月曜日

ギルの「ヒアアンドナウの転移解釈」 2

 ギルのまずおおもとの議論から始める。

転移の解釈=転移を自覚することへの抵抗の解釈+転移を解消することへの抵抗の解釈 という公式。

頭では知っていたが、改めて、「何じゃこりゃ―」。何なの、これ。

ハッキリ言って私はこれ以上読み進める気がうせたが、もう少し頑張ってみる。そうか、これまで40年間、ここで嫌になってこのギルの理論の理解を拒否していたのだ。ちなみにこの前半部分(転移を自覚することへの抵抗の解釈)はこれまで無視されてきたというのだから、ギルのオリジナルというところがある。ギルは、転移が正しく理解されないのは、フロイトの考え、すなわち転移とは患者の他者との関係の持ち方のパターンを意味するという考えをちゃんと理解していないからだと言う。こうしてギルはあくまでもフロイトに忠実であるという姿勢を示す。そしてフロイトは意識的で抵抗とならない陽性感情もしっかり転移の中に入れており、このことは忘れるべきではないとギルは言う。ここら辺のギルの理論は常識的だ。

 ちなみにこの点を後世の分析家はかなり批判的に受け止めているのも確かだ。フロイトはこの「意識的で‥‥」は分析する必要がない、と言っているわけだが、それが後世の分析家たちにとっては気に食わないのだろう。すべてを病理にしてしまいたいという彼らの姿勢がそこにはあるように思えるが、それは私の個人的な見解だということにしよう。

 その後のギルの記述は今読んでもとても刺激的ではある。フロイトの常識的な考えはあまり後世の分析家には省みられなかったということを、ギルは伝えているのである。そして「転移は歪曲 distortion である」という誤った理解を、アンナ・フロイトも、グリーンソンも、フェニヘルも犯しているというのだ。彼らも敵に回しているのか。

さてこの「何これ?」の二つの区別の話に入る。(転移の解釈=転移を自覚することへの抵抗の解釈+転移を解消することへの抵抗の解釈。)彼はまず転移の解釈とは転移抵抗の解釈の略だという。なぜなら転移は、「意識的で・・・・」という例の陽性転移以外は無意識的であり、なぜならそれは意識化に抵抗しているから、というのだ。そしてその中に二つがあるという。① 表向きは転移ではないものが転移のほのめかしを含んでいるという解釈。② 表向きは関係性に関するものについて、現在の分析関係の内外の決定事項を有するという意味で転移である、という解釈である。そしてこれは分かりやすく言えば、関係に関する間接的な言及か,、直接的な言及か、という違いだという。そして前者の例としては、ドラのケースで、彼女がK氏について言っていたことは、暗にフロイト自身についてのことだったということが挙げられるという。

何かまだるっこしいが、19ページ目に例が上がっているのでわかりやすい。

自覚への抵抗の解釈の例としては、「あなたが奥さんとの関係について話したことは、私たちの間でも起きていることのほのめかしですね。」


ギルの挙げている例を見て、なあーんだ、という感じ。ギルの十八番の「転移を自覚することへの抵抗の解釈」という概念については、私は大いに問題あり、とみる。一体奥さんとの関係の話が、治療関係の仄めかしであるというエビデンスはどこから来るのか? 一歩間違うと患者から「先生はすぐ私たちの関係に引き付けますね!」と言われてしまう。つまりとんだ誤解である可能性もあるのだ。

この論点は、「分析家は患者より知っている」という考えに基づくが、それは現代の精神分析ではこのままでは通用しないのだ。

2025年6月29日日曜日

遊びスライド 4

4.遊びは脳のシンクロのためのトレーニングである

再び予測誤差について

人間は常に予測誤差を最小化するように自分の活動を制御している。それにより思い通りに歩け、字を書き、人の話を理解する。

対人関係においてもお互いが同期化するためには、相手との違いを常に知り、それを減らしていく必要がある。

「生物は常に予測誤差の最小化を求めている」 ← これは本当か??


ところが予測通りの体験は面白くない!

人間の体験は適度のPEで成り立っている。

相手の行動により生まれる予測誤差は適度でなくてはならない。

というよりじゃれ合いは予測誤差が生じる楽しさではないか。

じゃれ合いは、相手からの見せかけの攻撃がこちらの予想を適度に外れることによりその楽しさが増す。

予測誤差が大きすぎる場合----見せかけの攻撃が痛みを伴ったり恐怖感を与えてしまう。

予測誤差が小さすぎる場合----同じことの繰り返しによるマンネリ化を生み、興奮を伴わずに退屈になる。



実際のジャレ合いで起きていること

お互いが「なんちゃって攻撃」を行う。しかしそこで一番面白く、興奮するのは、ギリギリの「なんちゃって攻撃」である。

ギリギリの「なんちゃって攻撃」が可能なためには極めて高度の予測誤差の調節が必要となる

→ じゃれ合いは結局は予測誤差の最小化に貢献する。



結論:遊びは脳のシンクロのためのトレーニングである


2025年6月28日土曜日

ギルの「ヒアアンドナウの転移解釈」1

ギルの「ヒアアンドナウの転移解釈」再考

マートン・ギルの言う「ヒアアンドナウの転移解釈」がよくわからなくなってきたので、原典に戻ってみた。Analysis of Transference Volume 1.(1982) だ。 この本の、それこそ最初にヒアアドナウという言葉が登場するまでの Introduction の数ページを読んでみる。わかりやすい日本語に直してみる。

「分析では転移の解釈が大事だと言われているのに、最近ちゃんと行われていないよね。彼らが注目していないのは、実際のセッションで起きている非明示的 implicit な転移の表れなんだ。フロイトは患者ともっと自由に交流したのだ。今の分析家たちは交流しないことで、転移が実際の状況と混じらないように出来ると思い込んでいる。しかし分析は対人関係的 interpersonal なものなのだから、交流しないということもすでにある意味では一つの交流の仕方なのだ。そのような態度も結局は混じりこんでるじゃんと言うのがギルの姿勢。  ここら辺はとても関係論的で現実的だ。分析家が交流してもしなくても、いずれにせよそこから転移が編み出される weave のだ。転移をうまく操作するために一切かかわろうとしない問題についてはリプトン (1977) も指摘しているところだ。要はフロイトが行ったように、より自由な関係を持っても、それが転移に与える影響をわかっていれば、十分にそれを分析して活用できるのだ。私が強調しているヒアアンドナウの転移解釈は・・・・」

と、ここでようやく「ヒアアンドナウ」というタームが出てくる。

 この文で分かる通り、ギルは特に定義をすることなく、ヒアアンドナウの転移解釈について語っているところが面白い。彼の言い分は、フロイトのように、もっと治療者は患者と interact することで色々な転移が起きるよ、それを分析しようよ、ということだ。わかりやすく言えば、ヒアアンドナウとは、実際の状況を考慮せよ take the actual situation into account (p3)、ということだ。そしてそれは自由な関わりを持て、と言い換えることが出来る。それは「今ここで起きていることにもう少し注目すべきだ」という意味ではない。やっぱりね。そうだと思っていた。と言うのも治療者がなるべくかかわりを制限すること restrict the interactions を行いつつ、今ここで起きていることに注目しても、ギルはそれをヒアアンドナウと呼ばないだろうからだ。自由に関わり、そこでの実際の状況をより豊かなものにして、それを利用せよ、ということを言っているらしい。結局ヒアアンドナウとは、「自由なかかわりによる現実的状況」ということになろう。これは別に何であってもいい。分析家がくしゃみをして、患者が「先生も風邪をひくんですね」と言ったとする。これは「ヒアアンドナウ」だ。(最近のタームで言うと、これってエナクトメントじゃないか???)

ただ分かりにくいのは、ギルの主張は転移を意識化することへの抵抗をもっと扱え、ということになるが、これって患者が分析の外のことを話す内容に注意を払いましょう、ということになる。なぜならすべての話が今ここの現実の状況に関係しているからだ、という理屈になる。これってどうだろう? かなり疑問が残る主張だ。

2025年6月27日金曜日

週一回 その18

 海外における治癒機序に関する理論

  ここまでで論じた我が国における「コンセンサス」(「週一回では、治癒機序としての転移解釈を用いる治療は難しい」)は海外での精神分析の議論にも見られるのであろうか?結論から言えば、少なくとも英語圏での文献や情報からは、そのような「コンセンサス」が存在するとは言い難いということである。

 まずは我が国の「コンセンサス」のきっかけとなった「ヒアアンドナウの転移解釈」に関する議論の歴史について触れる必要がある。米国においても Strachey により提唱された転移解釈(変容惹起性解釈)の重要性についての議論は、Merton Gill の「ヒアアンドナウ」の転移解釈の議論に引き継がれることで「新たな活力を得た」(Wallerstein p.700)と言われる。そしてよく知られる1960年代からのメニンガークリニックにおける精神療法リサーチプログラム(以下「PRP」)においても「ヒアアンドナウの転移解釈が絶対的な技法である interpretation of the transference in the “here and now” as the absolutely primary technical mode」という Strachey および Gill の提言は、一種の「信条credo」として謡われていたという。(Wallerstein p55)。
  しかしこのPRPの研究の結果として得られたのは、ヒアアンドナウの転移解釈の絶対性ということは証明されず、治療はケースによりそれぞれ独自であり、解釈による洞察以外にも様々な支持的な要素が入り混じった複雑なプロセスであるということが示された(注3)。

注3)メニンガーのPRPにおいては、42人の患者を精神分析(週4回)と分析的精神療法に分け、後者を表出的精神療法(週2~3回)、支持的精神療法(週1~2回)と分類したうえで詳細な研究が行われた。そして精神分析においてはヒアアンドナウの転移解釈が最も重要なテクニックとして用いられた。しかし精神分析として開始した患者のうち比較的分析手法が守られたのは10名ということだった。そして精神分析の対象となった患者の一部は、極めて支持的な手段である入院を必要に応じて併用していたという。この研究をまとめて、Wallerstein は、「ヒアアンドナウの転移解釈が治療効果を発揮したとは言わず、表出的な側面と支持的な側面が複合的に働いた」と結論付ける。そしてむしろ精神分析が受けられない(経済的な意味で、あるいは患者にとって適切でないという意味で)ケースの治療に重点を置かざるを得なくなったという。このPRPで用いられた表出的精神療法と支持的精神療法という分類はその後多く用いられるようになった。


2025年6月26日木曜日

週一回 その17

我が国の「週一回」の議論の特徴とその限界

 これまでに見た我が国の「週一回」の議論および「コンセンサス」は、山崎氏その他の検証に示されるように、ある一定の学問的なレベルに至っていると考えられる。そこでの「コンセンサス」、すなわち「週一回では、治癒機序としての転移解釈を用いる治療は難しい」ことの根拠としては、週4回という治療構造では供給が十分であり、容易に転移の収集が出来るが、「週一回」ではそれが難しいということである。そしてそこでは基本的には Strachey や Merton Gill による here and now の転移解釈を治癒機序として重んじるという立場に立つ。

 さて以下の章で海外の文献について論じる前に、上記の議論に関して差し当たって二つの疑問点を呈することが出来よう。

 

     <以下略>


2025年6月25日水曜日

週一回 その16

 週一回に関する「コンセンサス」とPOST

 以上に見た藤山氏の提言と高野、岡田氏の論文は、いずれも「週一回」においては、Strachey により提唱された精神分析的な治癒機序としての転移解釈を行うことの難しさや困難さについて論じていたが、我が国における最近の「週一回」についての議論もおおむねその考えに賛同し、受け入れる方向に向かっているという印象を受ける。山崎氏の論文(2024、p73)にはこの藤山の提言をより詳細に検証しつつ、支持する形をとっている。
 山崎氏は Meltzer や飛谷氏らの論文を参考に、「転移の集結」(転移がおのずと集まること)と「転移の収集」(転移を能動的に集めること)という概念を使い分ける。そして分離を体験するための密着な体験が、週4回以上に比べて週一回では得られないために、この転移の集結が生じにくいというD.Meltzer の見解を支持する。さらに山崎氏はそれを例証するような臨床素材を示している。氏は週一回のケースにおいて転移が当面性を有していなかったにもかかわらず、その解釈をすることによる能動的な「転移の収集」を試みて、その結果として失敗したという自らの治療経過を示す。そして氏が「転移の収集は転移解釈によりなされる」という考えを「週一回」に「平行移動」させてしまったことがその原因であったとする。

 山崎氏はこれまでの「週一回」に関する議論を総括したうえで、「『週一回』は『分析的』にするのは難しいという結論が出ているといっていいだろう」(2024,p20)。とし、これが最近の複数の分析家や精神療法家の間のコンセンサスであるという考えを示す。そしてそれにもかかわらずこれまで彼らの多くが「『週一回』は『分析的』でも精神分析的に行えるというごくわずかな可能性に賭けることで、『精神分析的』というアイデンティティを維持しようとしてきた」のだという(2024,p19)。  ここで理論的な整理のために、この山崎氏の示す「『週一回』は『分析的』にするのは難しい」と言う現在の療法家が下した結論を「コンセンサス」と言い表して論を進めよう。この「コンセンサス」とはより正確には、「週一回では、治癒機序としての転移解釈を用いる治療は難しい」と言う立場と言える。 

そのうえで山崎氏が提案するのは、精神分析との違いを明確にしたうえで、「週一回」それ自身が持つ治療効果について考えることである。これは上で見た高野氏や岡田氏の論文にもみられる方向性と言える。山崎氏は便宜的に「週一回」を【精神分析的】心理療法と精神分析的【心理療法】とに分ける(2024,p22)。このうち前者は「週一回」でも分析的にできる、という平行移動仮説水準のレベルにとどまっている。そして後者をPOST(精神分析的サポーティブセラピー)として新たに定義する。つまりは「週一回」を「コンセンサス」をもとに概念化したものが、POSTというわけである。  このPOSTの流れはそれに関する成書も出され、一定の認知を得ているために詳述は避けるが、このPOSTの概念的な位置づけについては、山口氏のまとめが参考になる。それによれば分析においては【分析的】では転移を扱うが、【心理療法】(すなわちPOST)では「無意識については扱わず(言及せず)に意識を大切にし、なるべく転移を扱わないというのがその方針としてあげられる。そして「転移―逆転移についての理解は治療者のこころの中に留め置く」(岩倉ら、2023)とし、それはまた転移を「拡散する」とも表現されている(山崎、p81、山口p246,247)。


2025年6月24日火曜日

週一回 その15

 読み直したら、かなりいい加減なことを書いていた部分。

 藤山氏により先鞭がつけられた「週一回」の議論に、さらなる弾みをつけたのが、2017年に発刊された「週一回サイコセラピー序説」(北山修、高野晶編、2017)という著書である。この本では藤山氏に加えて、北山修氏、高野晶氏、岡田暁宜氏といったこの議論を先導するベテランの論者たちの考察が提出され、それらを含めて「週一回」をめぐる議論の基盤が出来上がった印象がある。この中で高野氏、岡田氏の論文に言及しておく必要があるだろう。

北山修、高野晶編(2017)週一回サイコセラピー序説. 創元社.
岡田暁宜(2017)週一回の精神分析的精神療法におけるリズム性について. 北山、高野編(2017)第1章(45-60).
岡田暁宜(2024)週一回におけるヒアアンドナウの解釈について 高野、山崎編(2024)第2章(31-44)
 高野氏は精神分析協会で精神分析的精神療法家の資格を有しているという独自の立場からこの「週一回」について論じている。その中で「週一回」は精神分析と似たところがある、という立場を高野は「近似仮説」と呼んだ(高野、2017)。そして日本の精神分析会はこの前提に立って「壮大な実験が行われた」(高野、2017,p.16)と見るべきであるとする。またこの仮説が現在まで支持されたという結論は出せないとする。
 この1017年の高野の論述は抑制が効きかつ常識的であり、「週一回」は「プロパーな分析に近付くことを第一義とするのではなく」、患者の側のニーズなどの「現実も視野に入れつつ」「身に合うあり方についての検証」を必要としているというものである。すなわち高野自身もおおむねこの「近似仮説」を棄却する立場を取っているのだ。
 山崎はこの「近似仮説」という概念について、精神分析と「週一回」との違いを、平行移動できるか否か、の二者択一ではなく、「どこが似ていて、どこが似ていないか」と言う相対的な議論として提示したのであるとし、その意味では藤山の「平行移動仮説」に基づく理論を「もう一歩推し進めて抽出したものだ」とする(山崎,2024)。つまり「週一回」を否定的な文脈のみでとらえず、その独自性を模索するべきだという立場を表明しているのだ。 

もう一人、精神分析家の立場から岡田暁宜氏の論文(2017)についても取り上げたい。岡田は精神分析とは異なる「週一回」の独自性を論じる点で、高野の考え方に類似する。岡田は「[週一回とは]『日常生活や現実に基づく』という点にその真の価値があり」それは「日常生活や現実という大地の中の砂金を探すような作業」(p.58)という。ここにはFreud のよく知られる比喩が背景にあることは言うまでもない。Freud は精神分析を純金としてたとえ、そこに示唆 suggestion 等の余計な混ぜ物をすることを戒めたが、岡田氏は「フロイトの比喩は純金に銅を混ぜることを示しているが、銅に純金を混ぜることを示してはいない」(p57)とし、少なくとも週1回を、精神分析未満として終わらせることへの抵抗を示しているといえる。
岡田氏はさらに2024年の論文「週一回の精神分析的精神療法における here and now の解釈について」で持論を展開する。彼は「解釈は現在でも精神分析の中心的な技法である」(p35)という立場を表明したうえで、やはり「週一回」という治療設定は、「治療関係における絶対的な時間的な接触の不足」(p.41)のために転移が結実しにくいとする。そのうえで「週一回」におけるヒアアンドナウの解釈を意味あるものにするための3つの留意点について述べる。このように岡田の議論は「週一回」の現実に基づいた独自性について強調する一方では、砂金に象徴されるヒアアンドナウの転移解釈を「中心的な技法」(p.35)とみなすという点では、藤山説と重なる面を持つと言うことが出来るだろう。