2026年2月1日日曜日

レマ書評 ⑤

 第5章 持って生まれた身体と自分そのものである身体

 私が特に難解さを感じずに読めた章である。しかしそれは内容に同意したかという事とは別である。記述されたCさんの体験は痛々しく、男性の身体を持って生まれた人がSRS(性適合手術)(の失敗?)を通して感じる苦悩を実に見事に物語っている。私はこの章で改めて、患者の問題が養育関係に帰せられるというレマの理解に違和感を持った。Cさんが男性の身体を持った存在として自分を生んだ親に向ける憎しみをどうとらえるべきであろうか。親からのミラーリングの失敗により「自分の身体は間違っている」という体験を得た場合、「それが処理されないままとどまり、それゆえ身体の中で具体化される」としたら全く救い道がないのであろうか。

本章ではGIDを持たない治療者がいかに患者にとって理想化と羨望の対象になりえるのかについても考えさせられた。しかしそれにしても思うのである。SRSが存在する世の中に生きていることは、GIDの人にとって幸せなことなのか。それを願望として持つことを放棄するという方向性の治療は存在しないのだろうか。


第6章 トラウマと身体

とても読むのがしんどい章。映画のプロットを追うのが必至。でも「象徴等価」の概念はとても大切だと感じた。

第7章 分析家の身体

患者はしばしば分析家の身体に非常に強い関心を払う。その少しの変化が患者に大きな影響をもたらすとしたら、それは分析家を大きく拘束することにもなるだろう。恐らくそこで重要なのは、見かけは変わっても何時もの治療者であるという観念を患者が持つのとであろう。そしてそこで大事なのは、要するに患者が治療者を「象徴化」することだというのだ。猫はどんなに色や大きさが変わっても猫であるように、どんな服装をまとった治療者も同じ治療者である。そのために必要なのは、患者が、対象が同じでかつ異なるという矛盾に耐えることが出来るようになることであるという。愛着期に、愛着対象が同じで違うということは、いわゆるPEM(予測誤差最小化)の能力を高めることにつながる。逆に言えば、愛着がうまくいかないということはこのPEMが育たず、対象が一回ごとに新奇な対象として見える事であろう。すると会うたびにボトムアップからの情報収集を行うしかない。そうではなく、治療者がいかなる服装や装いで現れても、同じ対象だとみなすことが出来ること。それは最初の愛着対象との間で成立した対象恒常性に関わってくるのである。これがにが手なのがASDであり、それは生得的なものか、そしてそれは左脳の邪魔が入るのかのどちらかによるのだろう。(ちなみに「折れ線型」のASDにはやはり左脳の発達が関与しているのであろう。それによりボトムアップの力が右脳機能に擾乱を引き起こしているのではないか。情報収集は右脳による(同一性に基づく)トップダウンと左脳による(差異に基づく)ボトムアップの共同作業なのかもしれない。



第8章 ラプンツェル再考 (グリム童話。呪われて生まれた少女が魔女に幽閉され、21メートルの髪をはしご代わりに使われていたというお話。)

この章にも難渋した。ただしこの機会にいろいろ髪について考えた。確かに「髪はもっとも露出している身体的境界である。このことはほとんどの時間衣服でおおわれているほかの身体部位よりも、情緒的意味がもっと大きく、他者による攻撃に最も晒されやすい部位であると感じられるのであろう。」その通りだ。私たちは体の他の部位と同じように髪を隠そうとしない。むしろ髪が身体を隠そうとしてくれる。米津玄師のように、目を他者の視線から隠すように髪を伸ばすという事が起きうる。それゆえに、男性にとっては髪を失うことはある種無防備な肌(特に頭皮)をさらすことになり、脆弱性や羞恥の念を引き起こす。このように男性の立場としては髪について言いたいことは山ほどあるが、レマの関心はあまりそこにはない。ただしレマの提言(207)「患者が持つ自身の髪との関係や、分析関係において髪が使われる様が、対象から分離することに関しての最想起の葛藤や欠損に接近するための役に立つ入り口を提供できると提言している」という視点は今ひとつピンとこない。私としては髪の自己愛的な意味、つまり自分を装い、プライドや権威を表す最上の手段としての考察をしてもらえればもう少し興味を持てたかもしれないと思う。


第9章 カウチから離れて

この章は分析家のトイレを使用することの心理的な意味について論じられている。トイレを備えたオフィスを構える臨床家にとっては、かなり深刻な問題である。この問題に関するレマの論述もかなり分析的であり、例えばセッションが終わった後患者がトイレを使ったことについて、「そこを怪我したままにする意味を患者に話し始めるのはもっと難しい」(222)という。しかし私としてはむしろ、治療者の自己開示の意味を考えてしまう。治療者がそこを使い、そこをどのように清潔に管理するかは、実は治療者の見えない部分をさらすことになる。そしてそれはホスピタリティの意味も持つ。トイレを使ったことに触れないというのも一つのやさしさではないかとさえ思うのだ。もちろんその分析的な意味や、それに含まれる様々な空想は計り知れないのは確かだ。


2026年1月31日土曜日

ショア書評 ⑤

 6章 アタッチメント、感情調整、発達途上の右脳 (ほぼ省略)

(288)母親の新生児に引き起こす陽性感情が重要である。「母親が申請時に対して引き起こす要請感情は、人間の行動の感情の風景の中で最も強力で進化的に保存されている陽性感情の一つかもしれない」。つまり母親は乳児の陰性感情を抑え、陽性感情を増幅するという意味での調整を行っているというわけだ。← 支持療法の直接的な根拠付けと言えるのではないだろうか?

7章 ゾウはどのようにドアを開けているか? (省略)

8章 アタッチメント外傷と発達途上の右脳

(315)ジャネの貢献についての記載あり。彼のいう精神レベルの低下は、統合能力の低下を意味する。またジャネは「心的エネルギーの欠乏が解離を生むといった」とも記載されている。これは要するに副交感神経過多のことであろう。そしてその根拠としては、激しい情動が情動覚醒を維持できず、体験は統合されずに無意識の固定観念(岡野:トラウマ記憶か?)として残る。

(316)VDK、VDHさんらの記載。

「激しい情動を体験すると、その恐怖体験を既存の認知スキームと一致させることが出来なくなり、その結果体験の記憶は個人の意識に統合されず、代わりに分離(解離)される。」

ここにはおそらく、極度の扁桃核の興奮が海馬を抑制するという例のメカニズムが働いているのであろう。

(320) 通常は誤調律は必要でそれに続く「双方向的修復」で乳児はストレスとなる陰性感情に対処できるようになる。(岡野:PEMの話と同じだ。現実により訂正されることで、それを受け入れられるようになっていく。受け入れることの幅がどんどん増えていく。歩けるようになるためには転ぶ必要があるということだ。)

(320) ここでどの程度陽性感情を維持でき、どれだけ陰性感情を早く修復できるかが重要である。

(323)ジャネの言う心的エネルギーの欠乏とは、副交感神経の活動過多のことだ。

(325)D型の愛着などは、交感、副交感の同時の活性化だと言う。親に向かって後ずさりするといった状態。
(328)そのようなときに、母親も恐怖―戦慄の表情を見せる。この指摘も重要。

(332)PTSDの過剰覚醒も、解離も、両方とも右脳の関与を伺わせるだという。

(334)解離においては右半球の前頭前野と辺縁系が中心となって反応している。


9章 BPDは右半球障害か?

BPDも概ね右脳の問題として説明することになるという。
(386)BPDの生まれる機序としては、右脳の高次制御の欠如と右の定時皮質の低次レベルでの攻撃的な状態の増大」である。

  (396) 右脳の成長は遺伝子にばかり依存はしない。「特に母親との環境のエピジェネティックな経験により永続的に形作られる」。つまり経験依存的なのだ。


第10章 ボウルビィの進化的適応環境

圧巻の章である。(403)ボウルビイの進化的適応環境(EEA) という概念が現在の右脳を中心とした発達といかに関連しているかを論じている。

(412) 定型発達では右半球のミラーニューロンシステム(島皮質を介して大脳辺縁系と相互作用する)を頼ることによって、模倣した情動の意味を直接感じ取って理解する」

ちなみにΦとは結局ミラーニューロンのことなのだろう(岡野)

(413) ポージスによれば、右脳の発達は副交感神経とも深いつながりがあるという。

(416) OFCの成熟は、生後一年目の最後の四半期から2年目の中頃にかけてが臨界期である。「この腹内側前頭葉辺縁系構造は、扁桃体、島皮質、および前帯状皮質の他の辺縁系領域と相互に接続されている。

(417) 母親の前帯状皮質は、産後に再組織化される!!!

(419) 2年目の遅れた父親の関与の重要性!!そしてそこで養育を多く行っている父親程テストステロンのレベルが低下しているという!!。


2026年1月30日金曜日

ジャネ書評 ⑤

 第8章 PJのホリスティックプロジェクト ①

(161)少なくともジャネはいわゆる「ポリサイキズム」にくみしていたとみられる記述。「脳内で生成されるすべての心理的現象は・・・・あるいは多少なりとも完全にグループ化され、新しいシステムを作る傾向がある(Janet, 1901, p492 )」

(163) 統合不全 désagrégation と解離 dissociation を混同するべきではない、とある。前者の特別なものが解離 dissociation という理解であろう。


(167)フロイトのジャネ批判。彼はジャネの考えである患者の基本的な脆弱性、個人的綜合の低下という考えを受け入れず、患者が薄弱だから意識の分裂が起きるのではない。そう見えるだけだといった。

(168) 解離の理論への注目は、Lenius らの研究の影響が大きかったことが改めて強調されている。ある実験では、トラウマ的な脚本を聞いた被検者の70%が心拍数の上昇を見せ、30%が低下したという。


第9章 PJのホリスティックプロジェクト ②


(176)心理的緊張という概念について。ジャネもこの概念の限界に気が付いていたという。この概念は一定の複雑さを保ち、秩序と総合を生み出す力、という意味。しかしこれだけでは足りないと思い、心的力という概念を付け加えたという。


11章 トラウマを抱えた患者との催眠療法的関係 (OVDH、Cathy Steele) 

フロイトの転移に近い考えを、いかにジャネがより徹底した形で唱えていたかが書かれている章。サルペトリエールのジャネの患者たちが慢性のトラウマを抱えていたという事実、それに対してジャネがどのように治療的な手を差し伸べるべきかについても記載されている。(210)この部分を読むと、よく出てくるトラウマ治療の3段階説がおそらくジャネ由来であること催眠術師への依存がモルヒネ依存と同等の強さを持っていたという事情など、現在の私たちからは想像できない事ばかりである。


第12章 「トラウマ後ストレスの治療」は、バンデアハートとバンデアコークというトラウマの世界での二人の偉大なオランダ人による共著である。これを読むと、ジャネがいわゆるトラウマケアの三段階説、つまり①安定化②トラウマ記憶の扱い③再発予防、人格の再統合、リハビリテーションを先取りしていたということがわかる。(233)彼はその意味ではPTSD(彼の時代にこの言葉はなかったが)の治療論を唱えた最初の心理学者であったことがわかる。その中で興味深いのが②であり、トラウマ記憶を扱うことの難しさにジャネが取り組んだ様子が書かれているが、彼が行ったいわゆる「代用法」すなわちトラウマ的なイメージを中立的、ないしは肯定的なイメージに変えるという試みが興味深い。ジャネは催眠を用いてトラウマ記憶にさかのぼり、例えば幻覚的なトラウマ的イメージを花が咲いている絵に置き換えることに成功したとある。これについては Richard Kluft などによる、「トラウマを否認するプロセスへの加担だ」というネガティブな評価があるものの、ジャネの治療的な試みとして評価すべきであろう。

なおジャネの概念の中で理解の難しい心理的力と心理的緊張についての解説もありがたい。

心理的力 利用可能な精神的エネルギーの総和

緊張 エネルギーの組織化のレベルと、有能で創造的かつ内省的な活動を行う能力


2026年1月29日木曜日

ショア書評 ④

 第4章 右脳の感情調整 

(152)ショアの業績の一つの特徴は自分の研究をフロイトに基礎づけていることである。フロイトが論じていた無意識は要するに右脳の暗黙的自己なのだ、という提言がそれである。これがすなわちショアの「全方位外交」的アプローチである。

第5章 治療的エナクトメント

もっとも楽しみな章だ。しかも数十ページも続く途方もない長さである。ショアはブロンバーグらにより更新されたエナクトメントの概念はパラダイムシフトと一致していると言い切っている。これはどういうことか。つまり意識的認知から無意識的情動へと関心が移ったこととエナクトメントの概念は関係しているという。彼はこれを「情動革命」と呼ぶが、要するにエナクトメントは「無意識の強い感情」の表出であるという。彼はフロイトの無意識=右に局在化された「情動脳」がその生物学的基盤だとした上で、以下のように主張する(199)。「エナクトメントは、初期に形成された右脳の自動的生存メカニズムのリアルタイムでの再現を表す」。つまりエナクトメントは常に情動脳の興奮を伴い、その程度によりその深刻さが表されるのであろう。ショアはこれが右脳に局在化された皮質―皮質下系に関与するという。そして内側側頭葉の右皮質下過程もそこに関与し、そこにこそ情動的な記憶が保存されるという。そしてその上でエナクトメントは、関係外傷に到達するための手段だというのだ(200)。

以下、いくつかの重要なポイント。

(201)知覚と認識は後右皮質半球の側頭頭頂野により処理されるが、それがトラウマによりダメージを受ける。そこには精神的苦痛が深く関係し、知覚体験を変化させてしまう。ブロンバーグのいう象徴された次元のコミュニケーションとは高次右皮質系、象徴されていない次元の準象徴的コミュニケーションとは低次右皮質下系が関与し、その両者が切断されている状態が解離である(202)。従って解離は右半球の機能不全の変化と関連している(204)。「最近の臨床家は、エナクトメントは特に解離に関係しているとする」(204←ショア自身はあまりこのことを明言していない。)

(206)そして治療が進むと解離性防衛が働かなくなる。

眼窩前頭皮質(OFC)は皮質で処理された外界からの情報と皮質下で処理された情動ないし身体的自己状態を統合する場所である(219)。

エナクトメントは、皮質(OFC)-皮質下(扁桃体)の再接続を可能にする可能性がある(220)

エナクトメント中に、深いPI(投影同一化)をキャッチするためには、治療者はOFCをオフラインにする必要がある(220)つまり一種の解離を起こさなくてはならない。それを起こすことにより患者からのコミュニケーションを受け取れるということ???


(230)エナクトメント中には、共感的共鳴を維持することは無理だ!!
(230)エナクトメントが起きるということは、彼らがまだ「感じて」いない何らかの根拠である可能性がある

(233~4)エナクトメントも一種の解離が起きる事になるが,それは前方向性を有するのだ。

OFCとは要するに前意識だ。

(239) 小さな課題は左脳、重度のストレスは右内側前頭前野の刺激。多少のストレスなら左脳で解決する。それは通常慣れ親しんだ状況下で確立した行動パターンを制御することに特化している。(他方では右半球は情動覚醒の主要な場所である。)
(243)エナクトメントでは、凍結されていたトラウマが復活する。

(247)よく出てくる耐性の窓の図。調律することで、耐性の領域の幅を示す白い枠の縦幅が高くなるのがポイントになる。つまりここでは治療者と患者が調律、同期化出来ているという事が大事である。時系列的に言えば、最初は興奮を伴う「上の方」の窓で対処できていたが、それでだめだと「下の方」(解離的な枠組み)が優勢になる、ということだ。あるいは上の窓が狭いとすぐ下の方に行くという風にも言えるであろう。そして窓を広げるためには、多少なりともストレスが必要ということだ。それは(244)ブロンバーグが言っている。ただしそれはトラウマを生の形で思い出させるというのではない。それをプレイフルネスの中において生じさせ、耐性の上限に対するチャレンジが多少なりとも入ってこなくてはならないということなのだ。

(245)二つの治療のモダリティが示される。ここでも二つの耐性の窓でのワーク。上では関係的虐待の経験の記憶処理、下では関係的ネグレクトに関連した記憶処理を行うという。


2026年1月28日水曜日

レマ書評 ④

 第1章 羨望と母体  最近非常に頻繁に行われることの多い美容整形がテーマに掲げられている。(42)美容整形の手術を求める人たちのメンタルヘルスの有病率が高いという所見は確かに気がかりなことだ。しかしもう一つ重要なことは昨今のSNSばやりでバエることが再生数にもつながるとしたら深刻なことだ。しかし考えてもみよう。今やバーチャルな形でいくらでも整形(加工?)が可能なのだ。それにそれを問題視するなら、お化粧はどうなのだろう? これ程公認され、それどころかマナーの一種とさえ見なされているという事が本書では触れていないのは面白いと思った。何しろお白いなどの顔に塗料を塗るという風習は整形の原初形態であり、それこそ時代と文化を超えて存在していたのである。  私はこの身体の問題については、自分の理解や自覚は不十分であることを本書を読みながら痛感したわけであるが、それでもこの章で私が違和感を持ったのは、例えば次のような表現だ。(48)「美を追求することは、身体をデザインしなおすことで自己を誕生させるという万能感をエナクトする方法であり、それによって他者(母親)や、ひいては「欲望の対象」に依存する体験から逃れる方法であった。」これってあまりにブンセキ的ではないだろうか?私は整形は一つの変身願望であり、自分の殻を破る行為であると思う。もちろんそれは一歩間違えればBDDの様に底なしの闇に足を踏み入れることになるかもしれないが、それ自体は程度が軽ければ一種の「遊び」に近い。新しい技を覚え、新しい服を着、新しいファッションに身を包むという行為は、それほど病理的に考えなくてもいいのではないか?おそらく同程度の「遊び」は言葉の使用にも通じる問題だ。人は軽い嘘や誇張をしばしば用いて自分をより正しく、美しく、強く見せようとする。この遊びとしての化粧⇔深刻で自己破壊的な整形手術への希求というグラデーションがあるのではないか、という事なのだ。

第2章 いったい誰の皮膚なのか

 レマの身体への関心は、まなざしというテーマにも向けられる。他者の視線も、自己の視線もその向けられる先は身体を含む。他者の視線が自分を飲み込む性質のものならば、それは去勢してくる存在でもある。この章で登場するBさんという男性のクライエントは、屍姦幻想という事で他者を死者とみなすことで女性に入っていくことが出来たのである。屍姦幻想にまで至るというのは極端かもしれないが、母親のまなざしの問題は、臨床的にこれほど重要なものはない。飲み込んでくるような母親の視線の由来は、間違いなくそれが愛着の時期の最初の対象であったことの名残であろう。母親はその時、子供を自分の延長と考えている。子供が母子が密着しており、対象として意識されず、母親と「地続き」であると体験するのは、母親の側としても同じなのであろう。そして母親の感情は子供のそれとして同一視される傾向にある。ところが母親の側の「地続き」が強烈で、子供の側の感受性が強いと、これがフラッシュバックしてしまう。例えば父親のことをさして「お父さんはうそつきの悪魔のような人よね」と母親に言われて、娘はそれに対して抗いようがないと感じる。すると父親に対して優しい感情を持っていても「そうよね」となる。これは別の人格の形成につながることになるだろう。他方ではASDの「軽い質量の自己」は吹っ飛んでしまう。するとどちらにも偏らない人にとっては、母親の存在はその者がトラウマになりかねないのだ。


第3章 純粋な決定の秩序

 本章はサイバースペースに生きる若者という現代的なテーマを扱う。患者の一人がいみじくも語っているように、サイバースペースは自分が身体を持った、受肉した身であることbeing-in-a-body (ちなみにこの訳はハイデガーの「世界―内ー存在」に準じて 身体―内―存在)としてはどうか?)を忘れさせてくれる空間であり、非常に居心地がいいものの、それは偽りの空間であり、いずれは現実に引き戻されざるを得ない。患者の抑うつもちょうど家から出られないが外出せざるを得ない患者の苦悩を語っているようである。

(93)「アバターという仮面が与える匿名性の錯覚のせいで、人々はしばしば自分自身について通常の場合よりもはるかに多くのことをオンラインで開示する…オンライン上での交流は、一部の傷つきやすい人々に、想定外に剥き出しになってしまったと感じさせる可能性がある」とこれまた警句である。アバターという仮面が与える世界を楽しみ、遊ぶことは、おそらく現代の世界では不可避的である。昔ではできなかったことが出来てしまうことで、私たちは確実に違う世界に生きている。そしてそこでの規範、それに則ったうえで享受できるもの、そして危険性を一つ一つ体験しながら学ばなくてはならないのであろう。

第4章 過去なき現在

「思春期の性的移行における時間的統合」という副題がついているが、より正確には、「その破綻」である。ここに登場する「自分は男の子の身体に閉じ込められていた女の子だと確信していた」ポーラのケースは性再適合手術を受けた後も「手術前には何もなかった。自分の人生はクソだった」(133)とし、いわばそれ以前の人生を全否定するようなことを言う。そのようなケースの場合には手術を受けることが新しい人生を手に入れることにはつながらず、その意味で手術後も過去の人生との連絡が必要であることを示したケースと言える。愛着の問題に根本の問題があった場合、そのようなトランスセクシュアルなケースをどのように扱うかについて改めて考えさせられる章である。

2026年1月27日火曜日

ジャネ書評 ④

 第6章 ジャネからフェレンチ、ブロンバーグへ

(119)フロイトが解離の発見をどうして放置したかはいまだに解明されていないという。ジャネの貢献は「精神力動診断マニュアルPDM-2)に反映されている、という事だがこの本、案外手に入れにくく、調べられていない。

(121~124) フロイトは意図的な抑圧によって無意識内容を作り出すという説明。どうやらこれが解離と抑圧の違いのエッセンスと言っていい。そしてこれがフロイトが解離を否定する源になっているのだ!!!! (124)「これらの罹患によるヒステリー症例における意識の分裂は、意志や意図に端を発するものである。‥…しかし実際に起きることは患者個人が意図する事とは異なっている。・・・その人にできるのは、その表象を心的に孤立させることだけなのである。」

(ちなみに私(岡野)はフロイトに問いたい。「という事は、解離や抑圧は意識的な活動の産物でしょうか?」これにフロイトは答えられないであろう。なにしろ意思や意図、と言っているのだから、意識的な産物というしかない。しかしそれが無意識内に抑圧されるのに抑圧したことを意識している、とは矛盾してはいないだろうか?これが一番抑圧理論の一番悩ましい点なのだ。)

(126)ジャネの心理的統合不全 désagrégation psychologique は要するに高いレベルの意識が備わる綜合的で統合的な高次の機能(=現在化 presentification、現実機能 fonction du réel )とは正反対のもの)=意識野の狭窄、と考えてよいだろう。

(126) Liotti のまとめは完璧である。ジャネは、(意識のスプリッティングは)激しい情動で心が機能欠損になるためと考えたが、フロイトは自我による能動的な防衛だとした。これはえらい違い。もっと言うと解離は防衛ですらないであろう。心はダメージを受けているからだ。

(137)ブロンバーグの思考もほぼショアらの考えに近い。彼は通常の解離と病的な解離を分け、後者に関しては「早期の関係性トラウマが逆行性健忘を引き起こし、象徴的な形を欠いた身体的記憶は、意識的かつ明示的な形で表現され得ず」・・・それを「津波の影」と呼ぶ。そしてそれを表すのがエナクトメントであるというのだ。

第7章 ジャネのフロイト批判

ラッセル・ミアーズは、フロイトとジャネを両立させる立場らしい。

(144)ジャネ自身のフロイト理論との違いに関する主張は3点あるが、一番大事なのは、解離は受け身的、抑圧は能動的ということである。(146)これに関連して、フロイトは「意識内容の分裂は患者の意志の努力の結果である」とする(1984)。トラウマ後の解離は防衛であり、何かにより動機づけられた心的規制を示すというのは力動精神医学の基本となったのだ。

以下、いくつかの重要な知見。

(145)遺伝+トラウマという考えにより、ジャネの理論は愛着理論を先取りしていた。

(148)意識野の狭窄、とは精神レベルの低下、と考えるべきらしい。狭窄、という言葉がちょっと引っ掛かり、誤解を招きやすいと私(岡野)は思うのだが。

(148)累積ストレスで、PFCの樹状突起が失われ、扁桃体の樹状突起は促進される。慢性ストレスでPFC灰白質が低下するのは、人においても確認される。


2026年1月26日月曜日

レマ書評 ③

 身体としてあらわれる空想

身体が無意識のコミュニケーションの主要な手段となる患者さんに対して、分析家の身体が変化しない(あるいは安定した)体現化として設定の一部となるという主張。そしてその分析家のプレゼンスは、患者の不安や空想を体現化し、コンテインするという。この体現化とは一体どういうことか。私(岡野)にとっては「受肉」と言った方がわかり易い。受肉しているとは、心が体と一体になっていることで、心の苦痛は体の苦痛と不可分に体験されるという事だ。受肉しているとは、見られる身体を持っているという事だ。確かにそうだろう。私の肉体というプレゼンスは大きな意味を持つ。自分がどんな顔をしてどんな表情で他者と関わるかは患者にとって大きな意味を持つ。しかし身体はまた極めて偶発的な因子により変化し、時には人を幻惑して欺く。たとえば性的な魅力という事一つをとってもどうだろう?自分を本当にわかってくれると思えた人が同時に性的な魅力を備えていたとしたら。一気に多次元方程式並の複雑さが出現する。しかしSNSを通して本当に深く知り合った人たちは、実際に会う前からもう恋愛関係に陥る場合があるという例は、それの逆の例と言えるのだろうか?

身体の変化が及ぼすもの

分析家が分析設定の体現化された形として身体を概念化する際、転移解釈に意味を与えることが出来たはずの「かのような as if」空間は存在しなかったという事を、レマはDさんという人の治療例を振り返りつつ論じている。(どういう意味かよくわからなかった。)

トイレの使い方(実に身近なテーマ)

以下の二つの用い方があるとレマは論じる。

①性愛化され敵対的で侵入的な力動を実行するための倒錯的な使用。

②自己の受け入れがたい厄介な部分をさらけ出すときに、対象の受けるダメージを気遣うが、そのような患者はトイレットブレストとして使えない。 

おわりに

レマが本書の中でも繰り返し取り上げている「まなざし」は特別な意味を持つようである。体現化が意味を持つのは、それがまなざしの対象となるからであり、体現化の相互作用はそのまままなざしの相互作用でもある。

以上がキャンベルによる要約の要約。これではまだ全然わからない。という事でいよいよ本文に入っていくことになる。

序章 身体が語るとき

“The body always speaks” で始まる序章は、本書の日本語の題名にも選ばれている。この序章では、レマの本書の主張が端的に描かれている。体現化が心を形作る embodiment shapes the mind ので、分析家は身体をいつも心に留めておく必要があるというのだ。実はこれが本来の原題として扱うべきであろう。原題であるMinding the body は著者たちが訳している通り、「身体をいつも心に留める」が正確なのだ。

この序章のテーマは何と言っても、「体現化がこころをかたちづくる embodiment shapes the mind」という仮説である。これは身体化が心を「作る」ということではない。心に形を与える shape ということだ。これはどういうことか。例えば私は男性の、それも69歳という老年の体を持っている。日本人特有の顔つき、頭髪は薄くなり真っ白だ。このことは私のこれまでの来歴や作品や業績と共に私を規定する。そしてそれが少なくとも人前では常に私の心に反映される。つまり私の身体的な在り方はその重要な構成要素となってはいるものの、そのすべてを形成してはいない。
さて私たちはこのことを普段忘れがちである。他方私を見た他者はおそらく私の外見から私という人間や、私の心を規定することになる。そのことを忘れてはならないということを言っているのだろうか。確かに私の外見は、人前で振る舞うときにとても大きな制限となることは確かだ。そしてそれが社会的な関係を有するときに極めて重要だということである。それは私が着ぐるみを着たり、女装をしたときに体験する著しい違和感からもわかる。そして私が精神的にある程度安定しているとしたら、それは私のそのような身体を周囲が受け入れてくれる(と少なくとも思っている)からであり、私自身もそれを安心して受け入れることが出来るからであろう。そしてそれがさかのぼって両親との体験に根差している、というのが分析家レマの主張の大きな部分なのである。それがフロイトの「自我は真っ先に身体自我である」(14)という言葉に反映されているというわけだ。

このことを考えるうえでレマが言及するのが例のミラーニューロンの話である。私たちが他者の姿や振る舞いを見るとき、直接身体に訴えかけてくるものがある。人がバナナを食べているのを見るとき、私たち自身がバナナを食べているときに活動を行う運動前野の神経が同時に活動している。私たちは他者の在り方をこうして体で直接感じる。これはメンタライゼーションの概念をさらに磨き上げる助けとなる。それが体現化されたメンタライジング embodied mentalizing という概念である。そしてそれがおそらく損なわれているのがASDなのであるというのが私(岡野)の見解だ。

ともかくも私たちは、特に言語的なコミュニケーションを重んじるという立場をとりがちであり、そこにいかに身体が絡んでいるかを軽視し、ないし忘れがちであるという事は本章におけるとても重要なメッセージだと言えよう。現実には私たちは無意識レベルで自分の、そして相手の身体性に大きな影響を受けつつ、それを否認しているというのだ。