2025年12月19日金曜日

JASDにむけて もう終わったけれど 1

 「ASDと解離」覚書 (内海健「自閉症スペクトラムの精神病理」(2015、医学書院 を基本テキストとして) 

彼の理論における中心的な概念はΦ(ファイ)であり、他者の視線(志向性)のレセプターと表現される。他者に心があるということを直感的に知ることが出来る条件。そしてそれが不足している(欠けている?)のがASD。

🔴ASDは  直観的な共鳴 sympathy 

他者(の視線)により自己は飛び散る(質量が不足しているから)。ジル・ボルト・テイラーという脳科学者の体験記が参考になる。
🔴定型者は 心を介する共感 empathy
他者(の視線)によりもともと存在している自己は背後に下がる(質量が十分だから)

ASDにおける地続きの心の例:ある15歳のASD者。持っている茶碗を落として割ってしまったが、「茶碗がかわいそう」泣き叫んだという(内海、p130)。これは茶碗に心を見ていなくても生じることであろうか?あるいは茶碗だったら心を投影できるのか。3つの表情のみのロボットや動物なら共感できるという例も知られている。つまりASDでもかりそめのΦの存在を示している可能性はあろう。しかしそれはおそらく二次元的な心なら受け入れるのであろう。つまりそこから mind reading による無間地獄に発展しないような関係性なら持てるわけである。

共同注視が出来ない:ASDにおいて欠ける傾向にある共同注視は、「他者の心を直感する際の一つの様式。もっとも基礎にあるのは視線触発だが、それは異質性に対する直観を生むことになり、彼らには脅威である。それに比べて共同注視は相互理解の礎となる、寄り添うような認識である。(内海,p 68) つまりは他者はもう一人の自分であるという認識を支えてくれる体験を生む。ちなみにワンちゃんはある意味では常にこちらの顔色をうかがうという意味では共同注視をしているかもしれない。ASDでは「他者と地続き」でこれをすることが出来ない。

文脈が読めない:Φは一頭地を抜く存在であり、それがないと「文脈が分からない」という事になる。俯瞰できずに文脈に飲まれてしまうからだ。これがいわゆる「空気を読めない」という現象になる。そしてこれは(文脈を)「読む」という言い方をしてはいても直観的にわかるものである。

2025年12月18日木曜日

JASDに向けて 4

ちなみにJASDはもう無事終わってしまったのだが・・・・・。

ASDは機能性離断症候群ではないかという説を以前紹介したことがあった(Melillo R, Leisman G. (2009) Autistic spectrum disorders as functional disconnection syndrome. Rev Neurosci. 2009;20(2):111-31.)。要するに右脳不全と左脳の過剰な代償がASDの問題の本質という説がある。こうなってくるとΦの不成立と左脳の過剰機能とは相補的ということが出来るであろう。

ところで根本的な問題。いかにして別人格が生まれるのか。やはり一つの心から「別れる」と考えてしまうところが誤解が生じる理由であると思う。ジャネの第二法則(解離性障害と他者性、p34)で言うように、パーソナリティは本体とは別個に生まれるというのが現実なのだ。(ちなみにジャネの第一原則は、「催眠において表れるのは無意識ではなく、第2の意識である」というものであった)。要するに人間の脳はいくつものダイナミックコアを生み出す能力があり、実際にできては消えているのではないか?丁度真空の中を素粒子が生まれては消える様に。そしてそのうちどれかが選択されて結晶化する。一種のダーウィニズムだ。そしてそれは体験的には一つの人格が「助けて」と叫び、それに反応する形で突然現れるのだ。そのような形で初めてDIDに見られる独特で、創造的な人格のあり方も説明できるのではないだろうか?


2025年12月17日水曜日

JASDに向けて 3

 女性にDIDが多いのはどうしてか、男性にASDが多いのはどうしてか?この問題について再考する。私は「続解離性障害」(p87)でバロンコーエンのE的(共感的)とS的(システム化が旺盛)E的という考え方を援用し、女性的なEが行き過ぎるとDID、男性的なSが旺盛だとASDになるという仮説を立てた。これは柴山のいうDIDに過剰同調性(解離の構造 p138)が見られるという見解とも通じる。しかし女性のDIDにはASD的な傾向も強い。なぜか?柴山はこれを「アスペルガーの解離群と関連している」とも言っている。一つのヒントとなるのは、ASDもまた非常に共感的だという内海の説である。つまり両者は別の意味で共感的だということである。

ASDは  直観的な共鳴 sympathy 自分は 他者により飛び散る(質量が不足しているから)。
定型者は 心を介する共感 empathy 自分は存在しているが後ろに下がる(質量が十分だから)

ところで Φの生成場所はおそらく右脳か(Alan Schore)。動物でもこれは生じる。(特にワンちゃん)しかし人間のASDの場合は、左脳による過剰な代償が伴うことが問題ではないか。動物はそれがないから、まだましであろう。

2025年12月16日火曜日

JASDに向けて 2

さて話題は解離にうつるが、問題はΦの成立が解離性の人格の形成にとって必須かと言う問題である。これはASDとDIDの合併に関して考える際に重要になる。これについての内海氏の立場は以下の通りだ。
ASDでは影響を被りにくいという事はない。むしろそれが非常に強い場合もある。それは昨日述べた直観的な共鳴という問題にも関連した、体験の地続き性に関係する。内海によれば、ASDの「自己質量は軽い」からこそ影響もうけ、翻弄される。自分=司令塔はそもそもΦの存在に由来する。それが不十分、ないしは不在であるという事は、おそらくどっしりした主人格的な存在が出来にくいという事を意味する。言い換えれば「自分がない」状態と言える。Φは一頭地を抜く存在であり、それがないと「文脈が分からない」という事になる。俯瞰できずに文脈に飲まれてしまうからだ。これがいわゆる「空気を読めない」という現象になる。そしてこれは(文脈を)「読む」という言い方をしてはいても直観的にわかるものである。
 さてこのように被影響性が強く、かつΦが未形成であることは、解離性の病理を生み易い、と内海は言う。ASDで「物まねをするとその人そのものになる」という傾向が指摘されるが、それは最たるものであろう。
 例えば母親の「いい子でいなさい」と言われると、それがいい子の人格を生むという場合を考えよう。ASDの場合、「いい子でいる」は直接入って来る。母親の心を媒介にはしていないという事だ。それは言い方を変えると、母親に由来することは分かっていたとしても、それが自分を押しのけて、もう一つの自分となるのだ。ASDにおける自己の質量は軽いから(内海)すぐ飛んで行ってしまう。ニュアンスとしては「玉突き現象」だ。(DWは人の目をのぞき込むと自分がなくなってしまい、その人になるという。(内海、147))
 それに比べて定型者の場合、「あなたはいい子よ」という母親の心が入ってきて、そこでいったん質量をもった自分と衝突をし、しかし自己は消えずに背後に回る。少なくともそこには一種の葛藤が生じる。これは玉突きでも、自己は飛んでいかずに席を譲る。
もっといい例はないか。絶対に「AはBだ」と言い張る母親に異論を唱えられないとする。ASDならごく自然にAはBだ、という自分になる。もともと自分がないから。定型だと自分は大抵自分の考えAはCを持っているから、「AはCだ」という自分は解離されることになる。
DIDにおいては他者への共感性が高いことが解離の原因ではないかと考えたことがある。
 どちらも同一化過剰ということが出来る。しかしASDの場合には直観的な共鳴sympathy で定型者は心を介する共感 empathy だというのが内海の説だ。(P24)

2025年12月15日月曜日

JASDに向けて 1

JASD(日本解離研究会)の12月の大会(すでに昨日、無事に終わったが)に向けて、講演者内海健先生の「自閉症スペクトラムの精神病理」(2015、医学書院) を読んでいるが、いろいろ刺激を受けている。というよりか揺さぶられている。どうしてこんなに大事な本を読んでこなかったのか。この本の中心的な概念はΦ(ファイ、と読むのだろう)であり、非常にわかり易い表現として、他者の視線(志向性)のレセプターと表現される。もちろんこれだけでは何のことか分からない。しかしこれが成立しているということは、他者に心があるということを直感的に知ることが出来る条件であるというのだ。そしてそれが欠けているのがASD者ということである。ただし内海氏はASD者は「心」を介さずに直観的な共鳴(sympathy)の能力を持つ、というところが複雑である。つまりASDは他者のことが分からないというわけではない。ただしわかり方が定型者 typical person とは違うと言っているのである。それが他との同一化である。あるASDの人が、持っている茶碗を落として割ってしまって泣き叫ぶという例が本書に出てくる。自分が割れたと感じるからだ。でもそれは茶碗に心を見ていなくても生じることだ。
Φが成立しているということは他者のまなざしに反応をし、羞恥心を持つというのが内海説だが、全くその通りであろう。まなざしが私たちの心を揺さぶるのは、そこから無限の共鳴状態が始まるからだ。相手の視線を通じて対象化される自分。それは自分を対象化する視点と重なる。自意識を持つ人は、たとえば「自分はこんな恥ずかしいことをしていて、人には言えないな」と感じるだろうが、それを丸ごと目にしかねない人がいることに驚愕するのである。それゆえに他者の視線は怖い。そしてその自分が実は他者に対して同じことをしている。「どんな奴だろう?」と見ている。そのことを向こうも知っている。つまりそこには無限の交互性がある。例の対人関係における「無限地獄」である。
この無限交互の世界に入ることは、他者と会うという行為がそのままその他者の自分に対する経験のモニターの成立を意味する。世界は他者体験が込みになり、対象は「もの」と他者に分かれる。 ところでこのASDにおいても成立している(というかASDがその段階にとどまっている)直観的な共鳴(sympathy)は、右脳のみの世界という事も出来る。これについてはジル・ボルト・テイラーという脳科学者の体験記が参考になる。

2025年12月14日日曜日

分析的精神療法センターでのレクチャー

大変光栄なことに、私は12月6日に日本分析協会の分析的心理療法家センターで話をする機会をいただいた。
日本精神分析協会には、分析家になる道と分析的療法家になる道があり、後者が「センター」と呼ばれる組織である。そこでオンラインで50分の持ち時間でいわゆる支持的療法に関する持論を述べたのである。ある意味ではフロイト的な分析観にかなり挑戦する内容になったが、同時に旧来の精神分析的な考えを凌駕するような見方を示したつもりである。
しかし100年以上たってもまだ威力を発揮するフロイトはその意味では偉大な人物であったと言えるであろう。
お世話をいただいた高野晶先生、関真粧美先生、討論をいただいた縄田秀幸先生、そして若手ホープの山崎孝明先生に感謝申し上げたい。

2025年12月13日土曜日

青山学院大学での講演

 昨日は青山学院大学での講演。「AIで心理療法はどう変わるか?」といったテーマ。学生さんたちの反応もまあまあであった。青山通りの同大学のキャンパスに初めて入ったが、別世界という感じ。さすがMARCHの一角を占める大学だ。学生立ちは広いスペースを伸び伸びと行き来し、キャンパスの建物内のベンチに寝そべっていたり。点灯されたばかりのクリスマスツリーのあたりにたむろしていたり。こんな都会の喧騒、というよりはとびっきりハイソな街の真ん中にゆったりとした空間(これでも昔はもっとゆったりしていたが、その後建物がどんどん立ってきたという様子だが)があるのが少し驚きである。もちろん表面的な印象ではあるが、こんなところでのキャンパスライフは楽しそうだな、という感じ。

講演はおやじギャグや自虐ネタを交えた何時もの話。これで今年の講演や発表がようやく終わった。本当にいくつものハードルを越えてようやく迎えた年末である。