ここで私が日本を発つとき頭にあった「治療抵抗であるか偶発的かは、トレーニングを積めばわかる」というS先生の教えに戻りたい。そしてかりそめにもトレーニングを終えた私が40年前のその時の私に対して言うとしたら次のようなことだろう。 「確かに患者が3分遅れて到着した時、それが偶発的か、治療抵抗かが分からないという事は今でも起きているよ。はっきり言えば、精神分析はその種の直感を鋭くする方向にはあまり役立たないのだ。でもそのどちらかを見極めることはそれほど重要なことじゃないと考えるようになっているんだ。それに多くの場合そのどちらとも決められないからね。」 つまりこう言えるのだ。精神分析のトレーニングは、直観を鍛えることにはあまりならなかった。ただしその種の出来事の扱い方の経験値が増すのである。これはどういうことか。 たとえば患者さんが何回か遅刻することが続いても、すぐに解釈による介入、とはならないだろう。「あなたは最近セッションに何回か遅れてきますね。それは何を意味しているのでしょうか?」などと尋ねる事はしないことが多い。一つにはそのような言い方はもろに「遅れないように!」というメッセージを伝える事になってしまうからだ。患者の繰り返される遅刻は、彼が分析家に気を許し始めているからかもしれないし、一つの自己表現かも知れない。あるいは分析家の出方を試しているのかもしれない。しかし単なる偶発事、たとえば患者の時計が数分狂っていることに気がついていないからかもしれない。そして分析家の側も、言葉にはしなくとも色々感じ、あるいは考えるはずだ。患者に軽んじられていると感じたり、挑戦を受けたような気がしたり、はたまたほんの僅かの自由時間を患者からプレゼントされたと感謝するかもしれない。その様々なやりとりが重要なのだ。これらの心の動きのある部分は言葉として自由に交わされるであろうし、それに従って二人の間での「開始時刻」の扱われ方がカスタマイズされていくのだ。 いずれにせよ「治療抵抗」という呼び方ではくくれない様々な事情が浮かび上がってくる可能性がある。そしてこのように考えると分析的な「抵抗」の概念は非常に問題含みであることもわかるだろう。その概念はかなり高飛車で上から目線なのである。
岡野憲一郎のブログ:気弱な精神科医 Ken Okano. A Blog of an insecure psychiatrist
精神科医が日常的な思いつきを綴ってみる
2026年3月27日金曜日
2026年3月26日木曜日
「バウンダリー」推考 5
上の二つの例は何を示しているのか? 一つは終了時間についての例、もう一つは自己開示の例であった。両方ともある種の境界がそこに引かれていることで、それを原則的には守ろうとする二人の間のダイナミズム、やり取りが生じている。しかしそれは境界を厳密に守る事に徹することによって、ではない。境界を意識化し、それを念頭に置くことによって、である。治療者は患者からチャレンジを受け、境界を押したり引いたりする力を加えられ、それに対してある程度の柔軟性を発揮して対処する。それが柔構造的なやり方だ。そしてここが大事なのだが、その駆け引きを通して、実はその境界はもっとしっかりとした、やわらくて同時に強靭なものになって行くのだ。そうして境界のマネージメントを通して、治療者は患者に対して自分の生きた、安全な存在を明らかにしていくのである。 治療者と患者のやり取りを、押し相撲にたとえよう。そして患者の方が治療時間の延長を望んだり、治療者の自己開示を迫るという形で治療者を押してくる。治療者の皮膚は柔らかく弾力がある。患者がちょっと治療者のお腹のあたりを突っついても、その皮膚はその指を跳ね返してくる。その時治療者は多少困惑の顔色を浮かべ、「どうしたの?」と少し不思議そうな顔をするだろう。そこで患者はもっと強く押してみる。すると治療者の体は多少揺らぐが、押された力に応じて踏ん張るので、倒れることがなく安定を保つことができる。しかし治療者は先ほどよりはもさらに困惑の色を浮かべ「そんなに押さないでくださいね。どうかしましたか?」と尋ねてくるだろう。 このように治療者はその力に応じて反応をし、患者の側はどこら辺が引き際かを知る。ただその際の治療者の反応は依然として穏やかで、患者からのチャレンジに挑発されて仕返しをしてくるわけでもなく、心穏やかでかつ毅然とした態度を内に秘め、自己防衛のできる人間としてそこに存在し続ける。そこで患者が感じるのは、自分の体をしっかり保ち、かつこちらの働きかけに応じた反応を示す人間としての治療者であり、その動きを徐々に取り入れ、内在化させていることが望まれるのだ。 このように描かれた治療者の態度は柔構造的、と言えるが、もしそうでなく、境界へのチャレンジを常に治療抵抗として扱うという方針を持つ治療者ならどうだろう? それは剛構造的な治療態度という事になるが、患者は少し時間が遅れたり、治療者のプライバシーに少し踏み入ったような質問をした時には、患者はすぐに指摘されたり、ピシャッと跳ね返されたり、あるいは何事もなかったかのように無視されたりするだろう。「私の来週のキャンセルの理由をどうしてお尋ねになるのですか?」という質問はそれ自身はニュートラルであったとしても、患者は咎められている感じがするだろう。あるいは治療時間を過ぎても話が終わらないと、剛構造的な治療者は「はい時間ですね!」と強制終了させられることになる。患者には治療者は血の通っていないロボットのように感じられるかもしれない。 ここで示したような剛構造的な治療者は現実にはあまり存在しないかもしれない。治療者もそれなりに普通の人生経験を積んできているはずだからだ。しかし多少なりともロボット的な印象を感じさせるとしたら、その治療者は治療構造を何が何でも厳密に守るべし、という誤った教えをかたくなに患者にも自分にも押し付けてくる人という事になる。 なぜそのような治療者が存在するかを考えてみる。一つは、治療者の多くが「左脳人間」であり、境界を少しでも踏み越えることが著しい不快感や違和感、ないしは不安を喚起するという可能性である。ただそのような人が精神分析を志す可能性はあまり高くないだろう。そしてもう一つは治療構造を誤って理解しているために、良かれと思いその遵守を目指し、それを揺るがせる行動については抵抗とみなすという可能性である。これはかなり経験を積んだ精神分析家にもみられる可能性がある。いずれにせよ患者の側は治療者を血の通った人間として認識することが出来ないであろう。
2026年3月25日水曜日
「バウンダリー」推考 4
以上の例に挙げた治療開始時間は精神分析において比較的わかりやすいバウンダリーの例と言える。しかし精神分析には目に見えにくい、それ自体をバウンダリーとして把握しにくいものもある。そこでも互いに逆方向の「半柔構造」が存在してそれが治療者と患者の力動を生んでいる。その例として治療者の匿名性の問題を考えよう。 精神分析における匿名性の原則とは、治療者が原則として自分の個人的な情報を意図的に患者に伝えない(自己開示をしない)という原則である。これはフロイトが最初に唱えたことで、多くの古典的なやり方で治療を行う分析家にとっては今でも重要な原則である。そしてこれを患者と治療者の間に引かれた線引き、バウンダリーに関わる問題と考えることができる。 ところで私はそれに対して自己開示は必要に応じて「あり」だと考える。しかし私の主張は、フロイトに反対したものというわけではない。もともとフロイトの考えではこの匿名性の原則は常に守られるべし、というニュアンスがあった事に対する代替案としての意味を持っていたのだ。決して「むやみに自己開示をすべし」ではない。 わかり易く言えば、「治療者は必要な時以外は自己開示をするな」という、より現代的な匿名性の原則と「治療者は必要な場合には自己開示せよ」という私の主張とは結局同じことを言っていることになる。そしてこの意味でのバウンダリーは、それが剛構造的にそこに示されることで逆説的に二者の間の精神力動的な場を提供するのだ。 一般の読者にはこの匿名性の原則が意味することはピンとこないであろうから、さっそく例を示そう。先ほどこの原則を「治療者は必要な時以外は自己開示をするな」と言い換えたが、実際は患者は治療者のことをいつも知りたいと思っているわけではない。それどころかむしろ逆のこともあろう。つまり患者は治療者の個人的なことは聞きたくないかもしれないのである。
私があげる例は次のようなものだ。治療者が患者に来週のセッションをキャンセルする必要があると患者に告げるとする。実は彼の親戚に不幸があり、その日に告別式が行われることになったのだ。その際患者に急なキャンセルの事情をどこまで話すかは結構微妙な問題だ。治療者にはそのような急なスケジュールの変更がよくあり、患者が慣れているという場合には、特に理由を告げる必要もないだろう。しかし治療者の健康問題とか家庭のさまざまな事情を心配する患者にとっては、キャンセルの理由を知ることは一時的には不安の軽減(場合には逆効果?)に繋がるだろう。また患者によっては「きっと私があまり困らせるから会いたくないからではないか?」と疑う場合もあるかもしれない。すると治療者の側から、それが杞憂であるという一つの手掛かりが与えられるだけで、その患者はほっとするだろう。 ところが患者によっては全く治療者のキャンセルの理由を知りたくない場合がある。治療者が「親戚が他界したので故郷に帰ります」と伝えることは、ある患者にとっては大迷惑だったりする。「先生の個人的なことは聞きたくありません。なるべく実在しない存在と感じていたいのに!」と言われることもあるのだ。 つまり治療者が個人情報を患者に伝えることは「言い過ぎ」にも「言わなさすぎ(出し惜しみ)」にもなり、いずれにせよ少なからず治療関係にインパクトを与える。どちらに転んでも「先生は私の気持ちをやはりわかっていないんだ」という事になるとしたら、そのインパクトの大きさに従って治療で扱わざるを得なくなる。 しかしそこで治療者がそのことを取り上げて扱おうようとしても、その「扱い方」もまた問題になるだろう。ネガティブな反応だけに絞っても、次のようなものが浮かぶ。「どうして『家族の事情で』くらいに留めてくれなかったんですか?先生は私が何でも先生のことを知りたいとでも思っているんですか?」「父親を亡くした時の自分のことを思い出しました。先生はどうしてそんなに平然としていられるのですか?」「あれから父親を亡くしたという先生の気持ちのことを考えてばかりいました。どうしてそんな余計なことを私に伝えたんですか?」「私が先生のお父さんのことについて聞いたときの私の気持ちをどうして尋ねてきたりするんですか?私の気持ちについてあれこれ聞かないで下さい!」など様々だろう。そしてそれぞれに対して治療者の側からのいくつもの返し方が存在する。さらにそのそれぞれにいくつかの患者の反応が考えられる・・・。
2026年3月24日火曜日
「バウンダリー」推考 3
3.バウンダリーについての考えの深化と「治療的柔構造」の概念
私はそれからしばらくして生活の場を米国に移したが、そこで体験したことは一言では言えないものの、あえて言うならば、「境界はいくらでも侵犯される」ということだった。精神分析の構造や境界は、そこにしっかり引かれる傾向にあるが、それでもしばしば平気で破られている。誤解を受けやすいが、私は「境界は破られてナンボのもの」と思うようになった。境界は踏み越えられることで生命を保っていると言ったところがある。というよりは、「そもそも境界は生き物だ」、といった方がいいのかもしれない。
私が精神分析を本格的に学ぶ前に考えていたことは、すでに述べた。それは患者が境界を破る際に、どのような場合にそれが無意識的な抵抗に由来するかについて、直観や一種の嗅覚を身に着けるために、精神分析的なトレーニングが必要であるということだった。だからこそ精神分析の理論をさらに学び、自分でも分析を受け、また臨床経験を積むために留学したのだ(実はこれは口実だというニュアンスもある。要するに私は日本を出て世界を見たかったのかもしれないとも思う。)
しかし結論から言えば、私は患者との臨床を通じても、そして自己探求の為の教育分析を通しても(週4回のセッションを5年間)、そのような独特な嗅覚が得られたようにはどうも思えない。(あまり言いたくないことだが。)いや、以前より少しはましになっているのかもしれない、ぐらいは言っておこう。しかしそれとは別に、治療構造の重要性を再認識し、それを活用する方法を知ったというところがある。その意味での知恵はついたつもりである。
私は実は渡米するころまでには、小此木先生の治療構造論を少し疑うようになっていた。「先生、治療構造を厳密に守るというのは建前でしょ?」とまで思うことがあった。「精神分析的にやるということは、いちおう決まりは守りましょう、という事ですよね」程度のことではないかと考えるようになっていた部分がある。実際小此木先生自身がセッションの開始や修了の時間をあまり守っていないといううわさも聞いていたし、本人もそのようなことをおっしゃっていた。「嫌ね、僕はこういう立場だから、精神分析はちゃんと構造を守ってやりましょう、というけれどね。本当は‥‥」みたいなことを精神分析の講義でよく口にされていたのだ。
しかし今こうして考えているうちに、まさにある意味では小此木先生の(表向き上の)教えの通りだったという気持ちになっている。彼の言っていること(そしておそらく大勢の分析家たちが言っていること)は次のとおりである。「構造をしっかり決めておくから、そこからのズレ、例えば一分早いとか、一分遅いとか、いつもぴったりくるとかのことが識別され、したがってその意味を解釈できる」。それはそうなのだが、私が至った考えはそれとも少し違うのである。私が今考えているのは、「バウンダリーはそれ自体が明確に定まっていることで効力を発揮するのであり、それをめぐる微妙なやり取りがある両者(患者と治療者)の心の動きの場 field を形成する」ということなのである。ボクシングならボクシングリング、相撲なら円形の土俵があってこそ、そこで初めて戦いが成立するのである。治療構造とはその種のものなのだ。つまりそれは「守るべきもの」というよりは「『守るべきだ』と意識するべきもの」なのだ。
そのことを説明するためにある架空事例を考える。ある患者の精神分析のセッションが2時から始まるという治療構造が設定されているとする。ちなみに日本でプライベートオフィスを構える治療者は通常は待合室を持たないので(部屋代が倍になってしまい、支払えない!)、患者はきっかり2時に、ないしはそれ以降にオフィスをノックするという決まりが設定されるのが普通である。開始時間とはそのような状況において設定されていると考えていただきたい。
さてそのような設定で何が起きるのか。まず治療者は当然ながらその設定を厳守しようとする。倫理的な縛りは彼の方が重いが、それは彼が料金を取ってサービスを提供する側だからだ。彼は2時きっかりか、それ以降の患者のノックには素早く反応して患者を招き入れる。それは契約を守るという事であり、治療者の側にはそれを僅かでも遅れることは倫理的にできない。その意味で治療者にとっては開始時刻は「内側に向かって」剛構造的ということだ。
しかし治療者にとっての開始時間というバウンダリーは「外側に向かって」は少し柔らかいのが普通だ。つまり少し早めのノックにどれだけ反応するかについては治療者の側の裁量があるのである。たとえば治療者の時計では10秒早く患者がノックした場合にも、「まあいいか」となることはよくあるだろう。患者の時計が10秒だけ進んでいたのかもしれないし、ひょっとすると治療者自身の時計の方が少し遅れていたかもしれない。あるいは患者の側の気の焦りがあったのかもしれない。だから10秒前のノックでもドアを開けることは「サービス」としては十分にありうるのだ。
しかし普通治療者は2,3分ほど早いノックには反応しないだろう。無視する、答えない、というのが普通の反応である。まだ彼自身がトイレから戻っていないかもしれないし、そもそも前の患者さんの終了時間がなぜか遅れに遅れて、まだ立ち去っていないかもしれないからだ。その意味で治療者の時間厳守は外側には柔構造的であり、その意味では開始時間に関しては「半剛構造的」と言えるだろうか。
そして興味深いことに、患者にとっては逆方向に「半剛構造的」であることがわかる。
患者は2時以降は自分の時間だという感覚がある。だから2時に10秒遅れてもさほど気にしないかも知れない。それは患者の選択肢の一つである。より早く来ることには抵抗がある。5分前に来てノックしても治療者はドアを開けないし、さぞかし迷惑に感じるのではないかと思うだろう。それに前の患者がまだいるかもしれないし。定刻より前の時間は売り物ではないのだ。
しかし治療者は早く着いて外で待っている患者さんに「ちょっと早いですが、もしよろしければ始めましょうか?」と「おまけ」をすることならできよう。(もちろん治療にあまり来たくない患者さんの場合は話は錯綜する)。
逆に患者が2時ちょうどにノックをしても、治療者が10秒遅れでしかドアを開けてくれないとしよう。患者は治療者に時間を「盗まれた」と腹を立てることもあるだろう。途方もなく待たされている思いがするかもしれない。「10秒間というそんな些細なことで・・・」と思うかもしれないが、これが現実である。家の境界を考えればいいだろう。お隣さんとの境界線より一センチでも侵入されることにモヤモヤしない人は普通はいないのである。新幹線で隣の人の腕がいつの間にかホンのちょっとでもひじ掛けの中央線(そんなのは現実にはないが)を越えて侵入してきたときに感じる不快と同じだ。そしてこのことは、価格が、開始時間が、隣人との境界が近代以降(←適当である)しっかり定められたことで議論できることだ。そしてこの意味で患者にとってはバウンダリーは内側に柔らかいということになる。
2026年3月23日月曜日
「バウンダリー」推考 2
2. 私にとっての問題意識としてのバウンダリー・・・「患者が3分遅れる」
ここからは精神科医であり、精神分析家としての私の経験に即したバウンダリー論となる。バウンダリーについての私の意識が生まれたのは、私が精神分析と出会った時である。(ちなみに私の属する世界で用いる精神分析では、バウンダリーはシンプルに「境界」、そしてそれが侵されることは「境界侵犯」と呼びならわされているので、以下はそれらの表現を用いて話を進めさせていただく。)
その少し前に精神科医になっていたわけだが、精神科医としての臨床の仕事に特にこの問題は関わってこなかった。精神科医としての新人の頃、私はかねてから気になっていた精神分析を学びたくて精神分析研究会に参加し始めた。そしてそこで小此木先生の門下生であるという先輩医師のS先生とケース検討をしていて、この境界という問題に出会ったのだ。
ある時患者さんが分析治療の開始時間の午後2時に3分遅れたという話になったが、そこでS先生は次のようなことを言った。「まずこの患者さんが3分遅刻してきたのに注目しなくてはならないよ。この人は無意識に治療に抵抗しているんだ。まずそれを扱わなくてはならないね。」それを聞いたときは私にはハッとして、目からうろこが落ちた気がした。かねてから人の心に興味を抱いていたから精神科を選んだわけだが、それまでは日常的な些細な出来事に潜むであろう人の心の無意識にことさら「意味」を見出すことはなかった。そして「そ、そうだったのか‥‥!」と感心したわけである。そしてしばらくはこの患者の遅刻のことを考えていたが、そのうち疑問にぶつかった。
人が約束の時間に少し遅れて来るなんてことはいくらでもある。3分どころか10分の遅刻もあるし、場合によっては3分早くついてしまうこともある。かと思えば絶対にその時刻ぴったりに来る人もいる。私自身だってそうだ。でもそれが起きるたびにその無意識的な理由について問う事に意味があるのだろうか? 確かにその患者が3分遅れた時には、治療者に会うことに心のどこかで抵抗していたのかもしれない。しかしほかにも遅刻の原因は山ほどあるだろう。電車の遅延でも、患者が家を出てから忘れ物に気がついて取りに帰った場合にも起きるだろう。決まりが少し破られること(大げさに言えば「境界侵犯」)は偶発的にいくらでも起こりうる。その一つ一つを分析的に取り上げるべきかを考えだしたらきりがないのではないか?事実その日S先生とのケース検討は、この最初の遅刻の部分で大部分の時間を費やしてしまったのだ。
そうこう考えているうちに一つひらめいた。「そうか、精神分析では、とにかく患者が少しでも遅れたら、とにかくそれは治療に抵抗している、という仮説に基づき無意識の探求をする手法なのだ」。
何ともはや単純で理系的な発想である。しかし私はその頃はまだ精神分析は一種のサイエンスだと思っていた。そこには明確な方法論があり、それを行うための手法が定まっていると思っていた。だからそのように結論付けるしかなかった。
そこで次の分精神析研究会でS先生に次のように聞いたことを覚えている。「つまり精神分析では3分遅れた場合には治療に抵抗している、という仮定で治療を行うというわけですね。」私はそれに対してS先生からの「その通りだよ。それがセイシンブンセキだよ. Welcome to the club.」という返事を期待したわけである。
ところがその時の彼の返事は忘れられない。彼はあきれたように言った。「いや、もちろんそれはケースバイケースだよ。明らかに偶発的で、治療の抵抗とは考えられないのに、それを治療で扱うことはないよ。」それに混乱した私はS先生にさらにこう聞いた。「でもどの場合に治療への抵抗を意味し、どの場合には偶発的なものとわかるんですか?その判断の根拠は何なんですか?第一患者さんもその抵抗を無意識にしか持っていないとしたら・・・・」すると彼は厳かに、しかし決定的なことを言ったのだ。「それがわかるようになるために精神分析のトレーニングを受けて、まずは自分自身の無意識の働きを知ることだよ。それにより患者さんの無意識も見えてくるのだから。」「えー?」と私。「そういう事か。精神分析のトレーニングを受けるとはそのような深い意味があるのだ…」
そしてS先生は続けた。「小此木先生の治療構造の論文を読むといいよ。『治療構造論』は小此木先生の最大の業績だからね」「おおそうか!」と私。治療構造とは要するにセッションがいつから始まり、何時で終わり、料金はいくらで…という治療上の決まりを作っておくことを意味する。要するに「バウンダリー集」と言っていい。私はすぐさま小此木先生の精神分析セミナーの受講を始め、実際に其の謦咳に触れた。そして彼の「治療構造をしっかり定めるからこそ、それをめぐる力動がわかるんだよ」という言葉はその口調までしっかり脳に刻まれた。そして間もなくアメリカに精神分析を学びに留学したわけである。私は精神分析こそが心の探求のための真の道筋だと思い、治療構造は精神分析にとっての重要なツールだと信じて異国の地に降り立ったのである。
2026年3月22日日曜日
「バウンダリー」推考 1
1.バウンダリーの起源
バウンダリーの歴史についての考察という事で原稿をお引き受けしたが、実はバウンダリーとはとんでもなく広く深いテーマである。精神科医であり、かつ精神療法及び精神分析を専門とする立場である私にとってはとりわけ関心を持たざるを得ないテーマであるため、その立場からの考察になる。
私のバウンダリーの問題はとりわけ2つの意味において重要である。第1には精神分析や精神療法において問題となる治療構造という概念が、バウンダリーをいかに設定していかに扱うかというテーマに直結しているということだ。そして第2には、そのバウンダリーが乗り越えられたり侵されたりすることにより生じる問題、すなわち「バウンダリー(境界)侵犯」がいかに生じ、どのような形で患者に影響を及ぼすかというテーマもまた重要なのだ。しかし紙数の関係でこの2に触れることは出来ないかもしれない。
最初にバウンダリーの問題は広く深いと述べたが、その原型は私たちが持つ身体そのものに関連している。つまりバウンダリーの起源は私たちの身体性に根差しているのである。
(以下略)
2026年3月21日土曜日
バウンダリーとその侵犯の歴史 19
バウンダリー上の「遊び」と臨界
最終的にこの話は臨界状況に至っておしまいになるだろうか。私は基本的に生命体は臨界にあると思っている。動的平衡という考え方も、「自己組織化臨界性」 (Self-Organized Criticality, SOC) もこれに関係している。これについては、3年ほど前(2023年8月29日)にこのブログで書いたことを引用しよう。
脳と心は臨界状況である
ここで脳や心が置かれる臨界状況の典型的なものについて挙げたい。
・あることを思い出しそうで思い出せない時。
あるアイデアが閃きそうな時。
怒りの爆発をギリギリで抑えている時。
解離状態において人格の交代が起きる時。
これらの時私たちは「考え」てはいない。「脳」が自動的に動いている(サイコロを振っている?)だけである。何かを思い出そうとしている時、もう少しでいいアイデアが浮かびそうなときなどを思い浮かべていただきたい。私達はよく中空を見上げたり、眼球を上転させるような仕草をする。たいていの場合目は開いたままである。ただしその目は何か具体的なものを捉えてはいない。出来るだけ何もないような中空に目を泳がせたりする。その様な時私たちは明らかに何かを「待って」いる。向こうから何かが下りてこようとしている、そのプロセスの邪魔をしないように、心の動きを止めるのである。英語で言うと poise している状態。もちろん人によっては散歩をしたり、風呂に入ったりということをしながら、頭をボーっとさせるという手段を取るかもしれない。
では私たちは何がどうするのを待っているのかと言えば、それは私たちの無意識、ないしは脳からのリスポンスを待っている状態であろう。それはあたかもコンピューターの検索エンジンにキーワードを入れて enter キーを押し、結果を待っている状況に似ている。いずれにせよこのような場面で私達は無意識や脳に対してかなり受け身的な姿勢を取るのである。
「自己組織化臨界性」 (Self-Organized Criticality, SOC)とは?
さてここで少しわかりにくいタームを導入したい。それはSOCという頭文字である。これは「自己組織化された臨界性 Self-Organized Criticality」の頭文字だが、長ったらしいので簡略化してSOCと呼ぼう。これはどういう意味かといえば、複雑系の中でもあるものは、この臨界の付近に自然と近づいてくるという意味である。
SOCの定義としては、臨界に向かっては離れ、離れては向かい、場合によっては相転移を起こすシステムであり、広い意味では心、ないしは脳はこのSOCと考えられる。臨界から遠ざかっている時はあまり大きなことは起きない。しかし決断を下さなくてはならない機関であるということは、必然的にいつでもいざとなったら氷結や雪崩を起こすことのできるSOCである。
ではなぜ脳はSOCなのか。それは端的に動物は生きるという宿命を負っているからだ。動物は安静時でも常に活動し、外界からのエネルギーを必要としている。その為には捕食しなくてはならず、敵から身を守らなくてはならない。つまり行動を起こすわけであるが、それは殆どが臨界状況を含む。例えば猫がネズミを捉える時は、ネズミを捉えるという決断を下す、実際にネズミを捕獲するチャンスを伺う、獲物にこちらの存在を気づかれずに捕獲できるギリギリの距離までおびき寄せる、等はことごとく臨界期なのだ。
もちろん臨界期を迎えずに生きている生命体もいる。例えば一日に一度餌と水を与えられ、あとは昼寝をしている猫であれば、臨界はめったに起きないかも知れない。全てが計画通り、予測通りに生じ、猫は何もハラハラする機会がないかも知れない。しかしそのような環境を提供してくれるご主人様に捨てられたら、野良になり、臨界につぐ臨界の厳しい生存競争を生きていくことになる。
それに比べて自然界、例えば大地がSOCだと言えるのだろうか?必ずしもそうではないだろう。たとえばアメリカの中央平原に居てもめったに地震を体験しない。何年かごとに起きる大地震にハラハラすることもない。つまり臨界からは程遠いのである。しかし世界全体の地震の頻度が、リヒター・グーテンベルグの冪乗則に従う以上、全体としては臨界に近いことになる。つまりプレートは常に動いており、世界のあちこちでひずみが生じては地震である程度それが解消され、ということが連続的に起きているわけである。
つまり臨界状況とは生命体(それ以外にもあるだろうが)が常に近づいては離れていく関係にあるようなものである。そこで様々な事件が起きるのも当然である。臨界状況が面白いのは、ある意味で自明なことなのだ。そしてそこでは相転移という名のどんでん返しが起きる。それはトラウマにもなるのだ。