2025年9月14日日曜日

● FNSの世界 推敲の推敲 4

 全体をまとめよう。FNSは基本的にはヒステリーという精神的な病として扱われた歴史についてはこれまでに十分示した。それは体の症状でも心の問題が原因である、と考えられていたからだ。そして精神医学の診断基準も概ねそれに沿ってきた。それはある種の心因ないしはストレス、あるいは疾病利得があり、それが精神の、そして身体の症状をきたすという性質を持っているものと理解されていた。これはそれまでの疾病利得一辺倒の、どちらかと言えば詐病に近いような扱いからは一歩民主化されたということが出来るであろう。

その間いわゆる解離性障害についての理解は大きく進んだと言える。そしてそれを精神症状を来すものと身体症状に分けるようになった。いわゆる精神表現性解離と、身体表現性の解離というわけである。Psychoform and somatoform dissociation という考えだ。(Van der Hart O, Nijenhuis ERS, Steele K. The haunted self. Structural dissociation and the treatment of chronic traumatization. New York: W.W. Norton & Company; 2006.) そのうち精神表現性の症状をきたすものについては、それは精神医学の内部で扱われることになる。解離性同一性障害などはその例だ。ところがそこに身体症状が絡んでくる転換性障害だと、それが「現実の」、ないしは「本当の」身体疾患との区別が難しくなる。その際そこに心因があること、疾病利得が関係していることが、「本当の」身体疾患とは違うという了解があった。それが2013年以前の考え方であったことは上に述べた。 ところが研究が進むうちに新たなことが分かった。疾病利得がなくても身体症状が起きるだけではなく、心因がなくても身体症状が生じる(あるいは本来の身体症状が悪化する)ことがあるということなのだ。この状態は一言で言えばMUS(医学的に説明のつかない症状)ということになる。このMUSの概念について考える上で一つとても参考になるのが、いわゆる③「第3の痛み」と称されるいわゆる「痛覚変調性疼痛 nociplastic pain 」である。これが脳神経神経内科の分野で提唱されることになったのは、画期的な意味を持っていたと言えよう。


2025年9月13日土曜日

●甘え再考 6

 北山理論についての読解が続いているが今一つ分からない。ただしこういうことなのか、という仮説はある。要するに甘えは、甘えさせる、依存させる上位の存在が必要になる。子供の側の甘えは、むしろ「依頼心」なのだ。北山は言う。「甘えの欲求は依存欲求として抽象化されることが多いが、これは他者の適応を誘発し、対象を与えられることを依頼するものであり、その意味で『依存心』というよりは『依頼心』という呼び方が適切であろう。」そしてまたいう。「乳児の内的現実や現像というものの実在を信じる私は、下にいる乳児は上位の母親に何かしてもらうことを依頼するのではなく、スーパーマンのように自力で飛び上がって母親に飛びつこうとしていると解釈することもできる」。(どちらも引用は北山 1999.p.99)

つまり甘えは結局他人頼みであり、受け身的で、上からの母親の存在を前提といている。あるいは母親を見ることで発動する、と言ってもいいか。そしてそれが子供の側からの自発的愛情を無視ないし矮小化しているのではないか、ということだ。

もっと決定的な文章があった。「大きいものの側が下へ適応するのではなく、小さいものの側が上位へと、空想や遊び、または魔法で到達できるという可能性は、乳幼児の魔術的な願いや非現実的な祈りの存在を考慮すれば、間違いなく存在するのである。」(p.99~100)

ただ甘えにより幼児が母親の膝によじ登る場合、母親からケアされて当然という気持ちがあり、それを疑わない分だけ非現実的、魔術的であり、その意味で受け身的だけとは言えないのではないか。(甘えることが出来ない人からは、「どうしてそんなない相手を信じられるの?と不思議に思われるだろう。)

「刷り込み」の現象からわかる通り、赤ん坊はケアされるニーズをそれこそ周囲の何にでも投影する傾向にあり、十分に積極的、という気がする。それに母親も母親で子供の存在に反応するというよりは、母性はそれ自体が子供の存在を前提として成り立つという意味では積極的であり、ここでの能動性―受動性という二極化は存在しないのではないか、というのが私の感想なのである。それは博愛におけるギブアンドテイクとは別の意味で「平等」だと思うのだが。


2025年9月12日金曜日

●甘え再考 5

 前回からの考えの続き。甘えはお互いに上下関係のない愛、つまり対等な関係における愛とは明らかに異なる。これは見返りを求めない、という意味だろうか?つまり甘えと違う「大人の愛情」にはギブアンドテイクがある、一種の契約のようなものと考えることが出来るだろうか?そうかもしれない。相手が自分を愛すように、自分も愛する。他方が愛するのを止めたらこちらも止めざるを得ない関係だ。あるいは自分を差し置いて他の人を愛することに対しては非常に厳しい。その意味で極めて条件付きの愛である。

ところが母親の子に対する愛は、おそらく子供の母親に対するそれに似て、無条件的である。母親は、普通なら子供に嫌われても愛することを止められない。子供の場合はもっとそれが明らかである。また子供が別の人間(例えば父親)になついても母親はそれにジェラシーをあまり感じないであろうし、子供も母親が別の人間(例えばきょうだい)をかわいがってもそれに憤慨するわけではない。(少しはするかもしれないが。)

ちなみに北山先生は、このような上下方向の日本の愛は、キリスト教的な博愛の持つ水平性と対比させている。私のように男女の愛を対立させているわけではないことは断っておかなければならない。


2025年9月11日木曜日

●甘え再考 4

 ここから北山先生の「『甘え』とその愛の上下関係」という論文を読む。この論文は北山修編(1999)「日本語臨床3「甘え」について考える 星和書店 に収録されている。(私も一章「甘えと『純粋な愛』という幻想」というタイトルでこの中で書かせてもらっている。

この論文の中で北山は甘えには上下関係があり、母親は上の立場から子供に与えるという形をとる。つまりそれは「横並び」ではないというのだ。

ちなみに私の感想をさしはさむと、確かに上下関係はあるよなあ、と思う。北山先生の言っていることとニュアンスがあっているかどうかわからないが、何しろ母親の愛なくしては甘えは成立しないのだから。子供は母親に生殺与奪の権を握られているのである。ということで次回からゆっくり読んでみる。


2025年9月10日水曜日

●甘え再考 3

 「受け身的対象愛」という概念は、そもそもフェレンチが「タラッサ」の中で言ったこととされる。もともとフロイトの「最初に自体愛、自己愛ありき」という理論に対するフェレンチの批判が初めにあった。そして最初にあるのは、受け身的な愛、すなわち「患者は愛することではなく、愛されることを願う」という形をとるという(中野、P.23)。バリントはそれを「私はいつも、何処でも、あらゆる形で、私の全身体を、全存在を愛して欲しい、それも一切の批評がましさなしに、私の側からまず家でも無理する必要なしに」と表現する(p24)。

私はこれは一つの大きな発見だと思う。何をいまさら、と言われそうだが、よくフェレンチもバリントも、そして土居先生もこれに気が付いたと思う。これは生物学的はその通りといえるだろう。これを愛着の問題と関連付けてみるならば、親の方には、子供を愛したい、面倒を見たいという自然な衝動がある。子供はそれの counterpart というわけだ。両方が存在することで、まるで磁石のN極とS極が一緒になるように二つはくっつく。

彼らのこの着想は一つにはフロイトが何が本質的か、何が初めに起きるのかを問うて、それが一種の自己愛、つまり対象を含まない心の動きだと言ったことであろう。それを聞いた弟子は、「本当にそうだろうか?」と思ったはずだ。子供を観察すると親や養育者をごく自然に求めるようだ。しかしなぜフェアバーンのように「対象希求性」と言わずに、「愛されることを願う」と考えたのだろう?あるいはどうして「愛すること」ではなく、「愛されること」なのか?人は「赤ん坊は愛するということをまだ知らないからだ」というかもしれない。しかしそれなら「愛されること」も知らないであろうし、それを最初から求めるというのはどうしてだろう?

この問題、結局考えていくと極めて難しいことに気が付く。ただ一つ私にとって確かなのは、生まれた時に母親が不在だったら、赤ん坊はおそらく「愛されたい」とはならないだろうということだ。身近に自分にまなざしを向ける母親がいることで、母親の「愛したい」と子供の「愛されたい」は同時に始動するのではないか。そして最初の母子一体の感覚、赤ん坊にしてみれば温かい母親の胸に抱かれて安心して乳を飲むという体験を得て、それを再現ないし継続したいと思うのだろう。そこから子供の側の「(ずっと、あるいはもっと)愛されたい」が始まるのではないか。つまり母親の存在なしには「甘え」は始動できないのだろう。なんだかよく分からなくなってきた。


2025年9月9日火曜日

浜松での講演

 先日、といっても10日以上前になるが、8月24日(日)に浜松医大の精神科、児童青年期医学講座合同の研究会に招待されて解離についての講演を行ってきた。そのことも書いておこう。
8月も終わりに近づいているのにものすごい猛暑。しかし会場は冷房が効いてこの夏初めてカーディガンを羽織った。

会ではその熱気にずいぶん圧倒されてしまった。同大学の主任教授の山末英典先生は自閉症の治療、その他のたくさんの業績をお持ちの、まだ50代初めの気鋭の精神科医で、その強力なリーダーシップは、講演に先立つお話しから伝わってきた。彼の考えの特徴は、精神医学は生物学的、心理学的、社会学的な要素が複雑にかつダイナミックに絡み合った、極めて奥深い学問であるということだ。まさにその通り。浜松医大の精神科のレジデントや医学生たちはなんとラッキーな境遇にあるのだろうか?

2025年9月8日月曜日

昨日の神戸

 昨日は神戸の某学会での仕事に出かけた。9月というのに相変わらずの暑さだったが、それなりの収穫も得られた。書籍コーナーには面白そうな本がたくさんあった。今春出した私の本(「脳から見えるトラウマ」、岩崎学術出版社.このブログでも去年の夏頃は延々と書いていたものが形になった本である)も無事売られていた。それを見て励みになったので、このブログにも掲げることにした。編集部にあたっていただいた長谷川様、序文を書いて頂いた金吉晴先生に深く感謝したい。