ギルのまずおおもとの議論から始める。
転移の解釈=転移を自覚することへの抵抗の解釈+転移を解消することへの抵抗の解釈 という公式。
頭では知っていたが、改めて、「何じゃこりゃ―」。何なの、これ。
ハッキリ言って私はこれ以上読み進める気がうせたが、もう少し頑張ってみる。そうか、これまで40年間、ここで嫌になってこのギルの理論の理解を拒否していたのだ。ちなみにこの前半部分(転移を自覚することへの抵抗の解釈)はこれまで無視されてきたというのだから、ギルのオリジナルというところがある。ギルは、転移が正しく理解されないのは、フロイトの考え、すなわち転移とは患者の他者との関係の持ち方のパターンを意味するという考えをちゃんと理解していないからだと言う。こうしてギルはあくまでもフロイトに忠実であるという姿勢を示す。そしてフロイトは意識的で抵抗とならない陽性感情もしっかり転移の中に入れており、このことは忘れるべきではないとギルは言う。ここら辺のギルの理論は常識的だ。
ちなみにこの点を後世の分析家はかなり批判的に受け止めているのも確かだ。フロイトはこの「意識的で‥‥」は分析する必要がない、と言っているわけだが、それが後世の分析家たちにとっては気に食わないのだろう。すべてを病理にしてしまいたいという彼らの姿勢がそこにはあるように思えるが、それは私の個人的な見解だということにしよう。
その後のギルの記述は今読んでもとても刺激的ではある。フロイトの常識的な考えはあまり後世の分析家には省みられなかったということを、ギルは伝えているのである。そして「転移は歪曲 distortion である」という誤った理解を、アンナ・フロイトも、グリーンソンも、フェニヘルも犯しているというのだ。彼らも敵に回しているのか。
さてこの「何これ?」の二つの区別の話に入る。(転移の解釈=転移を自覚することへの抵抗の解釈+転移を解消することへの抵抗の解釈。)彼はまず転移の解釈とは転移抵抗の解釈の略だという。なぜなら転移は、「意識的で・・・・」という例の陽性転移以外は無意識的であり、なぜならそれは意識化に抵抗しているから、というのだ。そしてその中に二つがあるという。① 表向きは転移ではないものが転移のほのめかしを含んでいるという解釈。② 表向きは関係性に関するものについて、現在の分析関係の内外の決定事項を有するという意味で転移である、という解釈である。そしてこれは分かりやすく言えば、関係に関する間接的な言及か,、直接的な言及か、という違いだという。そして前者の例としては、ドラのケースで、彼女がK氏について言っていたことは、暗にフロイト自身についてのことだったということが挙げられるという。
何かまだるっこしいが、19ページ目に例が上がっているのでわかりやすい。
自覚への抵抗の解釈の例としては、「あなたが奥さんとの関係について話したことは、私たちの間でも起きていることのほのめかしですね。」
ギルの挙げている例を見て、なあーんだ、という感じ。ギルの十八番の「転移を自覚することへの抵抗の解釈」という概念については、私は大いに問題あり、とみる。一体奥さんとの関係の話が、治療関係の仄めかしであるというエビデンスはどこから来るのか? 一歩間違うと患者から「先生はすぐ私たちの関係に引き付けますね!」と言われてしまう。つまりとんだ誤解である可能性もあるのだ。
この論点は、「分析家は患者より知っている」という考えに基づくが、それは現代の精神分析ではこのままでは通用しないのだ。