2025年11月28日金曜日

WD推敲 2

  WDの起源は古いが、1970,1980年代に多種多様な援助職の観察力や対人スキル向上に貢献したという。そしてその可能性に気づいた臨床家によって、より幅広い援助状況に応用されていくようになって行った。そして臨床心理士養成大学院など、さまざまな領域の対人援助職に対して実践されはじめ、心理臨床の事例検討会やグループスーパービジョンにも応用されて、その汎用性が注目され日本ワークディスカッション研究会が設立されたとのことだ(野村)。しかしその運営、グループのファシリテートには固有の難しさがあることが分かってきたという。

私にとってのワークディスカッション


 さて日本におけるWDの取り組みについて述べることが本稿の目的ではない。ここからは私が知り得たWDについて現時点で思いめぐらすことを書いてみよう。

 私自身にとってのWDはと言えば、極めて身近にしかも数多く体験した、あのプロセスのことである。たとえば複数の人の前である事例が報告される。そしてそれについて様々なディスカッションが行なわれ、時にはさまざまなドラマか展開していく。精神科医や心理士としてのトレーニングで、そして学会や勉強会におけるケース検討の場でこれまで数限りなく経験してきた。時には胸おどり、時には深い疑問を抱かされるあのプロセス。場合によっては年若い発表者が助言者、参加者のみならず司会者にまで助け舟を出してもらえずに火だるま状態になるのを見たこともある。かなり昔の話ではあるが、私自身がその発表者の立場となったこともある。

 発表者が火だるまになった場合、聴衆の一人としての反応は複雑である。特にその発表者の主張に一理も二理もあるように感じる時はその一方的なデイズカッションの流れをあまりに不条理に感じる事もある。思わず発表者に援護射撃をしようと思っていても、その場の雰囲気に押されて何も言えず、歯がゆい思いをしたこともある。

少し極端な場合には発表者はその経験を一種のトラウマのように感じ、またその時に特に歯に衣着せぬ意見を述べられた先生に対して恨みに近い思いを抱くこともある。しかし一方では,「若手はああやって鍛えられるのだ、自分だってその道を通ってきたのだ」というベテランのコメントも聞こえて来たりして「そういうものなのか…? でもこれって一種のハラスメントではないか!」と更に疑問を抱く体験もあった。そうして症例呈示は言わば「ハイリスクハイリターンで何が起きるがわからないもの」として自分の中ではその理想的なあり方についと考えることはペンデイングにしていたが、この問題の検討の機会を与えてくれるのがこのWDの議論であるということが分かったのだ。


2025年11月27日木曜日

男性の性加害性 1

まだ引き摺っている原稿である。

 改めて‥‥「どうしようもない存在としての男性」とその性加害性

 今回の対談と同時並行的に様々な文献に当たりつつ思ったのは、男性の性の問題は複雑多岐でかなり込み入った問題であり、その多くは解明されず、また語られることは少ないということである。その中でも特に問題なのが、一見普通の男性が時に見せる性加害性である。
 性加害者は多くの場合、一見健康で普通の社会生活を送っており、特に犯罪などを表立って犯すことのない男性達がかかわっている。昨年、一昨年に世間を大きく騒がせた元アイドルのN氏やY氏やM氏が、普通の人の仮面をかぶった犯罪者であると考える方々にとっては、私のこの主張はあまり意味をなさないかもしれない。しかし私は彼らは少なくとも普通、時には善良な人々として社会で通用していたということを前提として論じる。
 そこで彼らの起こす問題をとりあえず、「普通の男性の性加害性」として捉えることが出来よう。これは当然ながら病気としては扱われないという事情がある。御存じの通り、この問題は社会に大きな影響を及ぼし、数多くの犠牲者を生み出している問題であるが、これまで十分に光が当てられてこなかったのである。つまり「普通の男性の性加害性」は私たちの社会において一種の盲点になっていたのだろう。
 臨床で出会う性被害の犠牲者たちがしばしば口にするのは、それまで信頼に足る存在とみなし、また社会からもそのように扱われていた男性からの被害にあってしまったという体験である。そしてそれだけにそれによる心の傷も大きい。信頼していた人からの裏切りの行為は、見ず知らずの他人による加害行為にも増して心に深刻なダメージを及ぼすというのは、トラウマに関する臨床を行う私たちがしばしば経験することである。
 しかしこの問題は自分たちのことを「一見普通である」と自ら思い込んでいる男性の恐らく大部分にとっても決して他人事ではないはずだ。どんなに社会的な地位があり、日頃から品行方正とみなされていても当事者である可能性を免れることはないかもしれない。昨今のニュース報道を見ればわかる通り、女子生徒の盗撮などの行為を行っている人たちは学校の当の教師たちなのである。それも日頃は信頼され、父兄からも安心して子供を任せられると思い込んでいた人たちの行為なのである。そこにこの問題の複雑さ、闇の深さが存在するのだ。私が男性のその様な性質を「どうしようもない存在」と呼ぶとき、これはある意味では男性という性を負った私たちが多かれ少なかれ運命づけられ、そのこと自分のこととして考え、反省しなくてはならないという自戒の念を込めているのである。

2025年11月26日水曜日

WD推敲 1

 ワークディスカッションの話。始まったと思ったらもう推敲だ。

 この度「●●●」という著書に特別寄稿を書かせていただくことになった。大変光栄なことである。ちなみに「特別寄稿」は私の好きなジャンルである。なぜなら自由なことを書いても比較的許されるからだ。ということで私はこのディスカッションに突然引き込まれ、おかげでずいぶん刺激を戴いた事を感謝しつつこの稿を起こしつつある。まず私なりにこのwork discussion (ここからは”WD”と書くことにする)についての私の乏しいながらの理解を書いてみる。
  WDは精神分析をルーツとし、グループの環境で学びを高めるためのプログラムである。そしてこの動きは日本の心理臨床においてかなり前からあり「日本ワークディスカッション研究会」まで存在している。ただし広く一般に知られているとはいえず、まだこれからの領域という印象を受ける。かくいう私も今回長谷綾子先生、若狭美奈子先生、橋本貴裕先生の企画による同テーマの自主シンポにコメント役として参加させていただき、その存在を遅ればせながら知ったということを告白しておこう。

 WDは、英国のタビストック・クリニックにおける乳幼児観察(Infant Observation)が源流であり、主として精神分析的視点に立った対人援助職の教育訓練のために開発された。この創始者は精神分析の世界ではよく知られるイギリスの分析家エスター・ビックであり、彼女は乳幼児観察と個人精神分析を統合したとされる。ちなみにこの乳幼児観察については英国に留学した先生方が日本に伝えているので分析家の間ではなじみになっている。
WDは、観察者が自らの体験(感情、身体感覚、反応)を通して無意識的な対人関係の力動を見出すことを目的とする。
具体的なプロセスとしては、参加者が臨床現場(保育所、病院、学校など)で観察したことを記録し、それをグループで読み合わせ、そのあとディスカッションを行うが、それが「自由連想的』であるところがいかにも精神分析的である。そしてその際指導者(facilitator)はあくまで分析的な視点での促し手であり、指導・教示は最小限に抑えられるということだ。
そこでは「観察者が感じたこと」「関係性の中で何が起きているか」に焦点が置かれ、背景にに対象関係論(オグデン、ビオン、ビックなど)や投影同一視、コンテイニングなどの概念があるとされる。そして「何が起きていたか?」よりも「なぜ私はそれをそう感じたのか?」に注意が向けられる点が、教育やスーパービジョンとは一線を画す。つまりそこで起きたことを事実として検討する、という意味ではないという点が特徴なのだ。


2025年11月25日火曜日

特別寄稿 8

日本型のWDについて

ここで日本型のWDについて論じる資格は私にはないのかもしれない。私は具体的な実践を行っていないからだ。しかしこのWDの概念は一般に私たちが行うあらゆるグループディスカッションに深く関連している可能性があり、グループでの体験について、米国、フランスでの体験を比較的豊富に有する私にもある程度その資格があると考える。またこのWDが日本社会において行われる際にどのような点が問題かについては、またそれが本格的には論じられていないという点もある。WDが日本に導入されてからかなりの年数がたっていることを考えると、そろそろそのような議論が出てきてもいいのではないかと考える次第である。

ちなみに日本でのディスカッションそのものの特徴については金子智香・君塚淳一 (2007) の論文が参考になる。彼らはWDとは直接関りがないながらも、大学英語教育を行う上でのグループディスカッションが持つ様々な問題について論じている。彼らは英語によるディスカッションにおいて、「ディスカッションどころか会話も成立しない」という問題にしばしば遭遇し、日本において学生のディスカッションへの抵抗感を取り除いたり緩和したりすることの重要さを説く。そしてその背後には、西欧文化と日本文化の違いがあり、「意見を戦わせて議論で解決して行く文化と、個は出来る限り抑制し集団で動く文化の違い」(p.77)について指摘する。

金子智香・君塚淳一 (2007) 日本の大学英語教育におけるディスカッションの指導法とは[1] ―授業における効果的方法を考える― 茨城大学教育実践研究 26, 75-87. 


2025年11月24日月曜日

特別寄稿 7

 先ずは私なりにWDの起源と発展について簡単にまとめたい。WDは、英国のタビストック・クリニックにおける乳幼児観察(Infant Observation)が源流であり、主として精神分析的視点に立った対人援助職の教育訓練のために開発された。この創始者はイギリスの分析家エスタービックであり、彼女は乳幼児観察と個人精神分析を統合したとされる。ちなみにこの乳幼児観察については英国に留学した先生方が日本に伝えているので聞いてはいたが、その詳しい内容を私は知らなかった。 WDは、観察者が自らの体験(感情、身体感覚、反応)を通して無意識的な対人関係の力動を見出すことを目的とする。 具体的なプロセスとしては、参加者が臨床現場(保育所、病院、学校など)で観察したことを記録し、それをグループで読み合わせ、そのあとディスカッションを行うが、それが「自由連想的』であるところがいかにも精神分析的である。そしてその際指導者(facilitator)はあくまで分析的な視点での促し手であり、指導・教示は最小限に抑えられるということだ。 そこでは「観察者が感じたこと」「関係性の中で何が起きているか」に焦点が置かれ、背景にに対象関係論(オグデン、ビオン、ビックなど)や投影同一視、コンテイニングなどの概念があるとされる。そして「何が起きていたか?」よりも「なぜ私はそれをそう感じたのか?」に注意が向けられる点が、教育やスーパービジョンとは一線を画す。 ところでこの文章、Chat君に手伝ってもらって書いているが、最後の部分、つまり「何が起きていたか?よりも「なぜ私はそれをそう感じたのか?に注意が向けられる点が、教育やスーパービジョンとは一線を画す」という部分。「何が起きたのか」を事実として検討する、という意味ではない(つまり真理を追究するのではない)ということなのだろうか。


2025年11月23日日曜日

PDの精神療法 1

これも依頼論文である。もう書くものが多すぎて訳が分からなくなってきた。  

本章は 「Ⅲ さまざまな精神疾患に対する精神療法」の第13番目として位置づけられる。扱う対象はパーソナリティ障害(personality disorder, 以下PD)ただ他章の統合失調症やパニック症などに比べ、本章ではDSM-5のカテゴリカルモデルに従っただけでも10という大所帯である。従ってPDの治療に関する議論も多岐にわたるため、ここではBPD, NPD, ASPおよびCPTSDの4項目に限定して論じることにしたい。(最後のCPTSDはもちろんPDの一つとは数えられないが、CPTSDの有するパーソナリティへの表れについて考えると本章で特筆する価値はあるものと思われる。

PDの治療論として特にBPDが筆頭に挙げられるのにはそれなりの経緯がある。歴史的には主として神経症の治療として出発した精神分析がその対象を広げ、またその方法論を変更する必要に迫られたのは、1960年代にはじまるBPDの概念への注目やその治療についての模索が始まったからである。その過程でカンバーグやマスタ-ソン等により唱えられたBPDの治療論はNPD等により応用される一方ではDSM-ⅢによるカテゴリカルなPD論の整備がなされたのである。その意味ではPDの精神療法に関する議論はPDに関する理論から派生したものと考えられよう。


2025年11月22日土曜日

特別寄稿 6

ここから、私が授業で採用している方法(私なりのWDの変法?)について書くつもりだったが、その前に一つの disclaimer (但し書き)が必要だと思った。というのも「日本人はグループでは話そうとしない」などと偉そうなことを書いているが、私自身ははぜったいにグループで積極的に喋らないタイプだったことを告白しなくてはならない。おそらく生来の引っ込み思案が関係していると思うが、私は極度の恥ずかしがり屋で気弱である。(このブログの題の通りだ。)アメリカでレジデントをやっていた時も、とにかく無口だった。下手な英語で恥をさらすことなどできるわけもない。(もともとディスカッションについていけないということもあったが。)だから「では質問のある方?」と講義の後で呼びかけて、シーンとされていても、自分が向こう側に至らシーンとする一人なので、その気持ちはとてもよくわかる。しかし他方では言いたいことを用意していたりもするのだ。しかし手を挙げる勇気がない。実はパリとトピーカで過ごした長い時間、「あー、またクラスで手を挙げて話すことが出来なかった。悔しい!」という思いを毎日のようにしていたのだ。クラスで思い切って発言したかどうかで、その日の後の時間の気分が大きく変わるから結構これは重大な問題なのだ。
しかしひとつ面白い体験があり、それはメニンガーでの体験グループでの体験だった。外国人留学生も交じって、力動的な体験グループに何度も出たが、20人、30人という人数のグループでも発言に不思議と抵抗がなかった。「ええと、思っていたことが言えなくて、単語も出てこなくて困った!」ということも含めて言っていいのが力動的なグループだと思い込んでいたから、すべてを実況中継すればいい、と思えば発言はむしろ楽しいくらいだった。要するに素(す)であることを許される場なのである。そしてもちろん同じことは分析を受けている時も起きた。分析家の前では何を言ってもいい、ということになっているから「素」のままでいい。

このことはWDを考える場合にも重要かもしれない。どこかで箍を外してあげることで人は見違えるほど饒舌になれる可能性があるのかもしれない。