さてここからは今日の私の話の本題である、支持療法の有効性と限界というテーマについてお話しする。私自身は支持療法の重要さを十分理解しているつもりであるが、とりわけそこでの共感の意味を重んじている。共感と言えば、日本の臨床家ならカール・ロジャーズやハインツ・コフートの唱えた概念であり治療メソッドであるという認識を持つ方が多いと思うが、既に一昔前の概念という印象をお持ちになるかもしれない。しかし最近は愛着に基づく精神療法との関連で新たな光が当てられている概念でもある。
あらためて「共感」の持つ有効性を考える
ここで改めて、共感はどのような形で支持療法における要となるのかについて考えてみよう。私はそれについては二つ挙げられると思う。まずは他者から見守ってもらい、わかってもらっているという感覚が安心感、安全感を生むということだ。それがなぜそれほど大切かと言えば、私たちはみな恐らく孤独を恐れ、回避しているからである。もちろんだからと言って私たちが常に他人と群れていることを望むかと言えばそうではないだろう。一人で時間を過ごすことを好む人もたくさんいるはずだ。しかしそれでも世界から隔絶されていることを望む人は極めて例外的ではないかと思う。
たとえば山にこもり座禅をする毎日を過ごす修験者であっても、世界のどこかで誰かとつながっているという感覚はあるかもしれない。それは宇宙との一体化という形で体験されるかもしれないし、場合によっては霊界の住人とつながっているという感覚を求めていたり、実際に持っていたりするかもしれない。
療法家とはたとえ週に一回、あるいは月に一回しか会えないとしても、患者にとって自分が理解されてその世界を共有されているという感覚は何事にも代えがたいと考える患者も少なくないのではないか。ただし療法家がどれだけ患者の孤独を和らげることができるかについては、ケースバイケースであろう。だから「共感により私たちは根源的な孤独感からの救いをある程度は得られる可能性がある」というだけに留めたい。
共感のもう一つの役割は、それが患者の内省力や創造性を開放する力を有するという事である。私たちは自分の本当の姿を見ることに大きな抵抗がある。自分がとるに足らないないしは恥ずべき存在であったり、罪深い存在であったりすることへの危惧は多かれ少なかれ私たちが持つものである。その時に共感してもらえる存在があることで、自分を見つめる勇気や動機付けが与えられることになる。
私たちがSNSであれほど求めている「いいね!」は恐らく私たちが世界や自分を探求してより生産的な生き方をする上で必要なエネルギーを与えてくれるものでもある。
「共感」の持つ限界?
さて以上述べたように、共感の持つポジティブな意味は大きいが、その限界についても私たちは十分理解しておく必要があると思う。もっとも根本的な疑問は、私たちはいったいどこまで他人の気持ちをわかることができるのか、という問題である。簡単に共感、共感というが(というより私もこの瞬間までそうしていたわけだが)、人の心をわかるというのはそんなに簡単なことではない。「自分をわかってもらえた」という感覚は、実はバーチャルである可能性は非常に高い。
もし「わかってもらえた」という感覚がバーチャルなものであっても、それで本人が心地よさを感じるのであれば、それでいいのではないか、という議論もあるかもしれない。しかし「わかってもらえた」がバーチャルであれば、「全然わかってもらえていない!」もバーチャルな形で生じやすい、という事である。
恋愛の体験を考えよう。恋に落ちた時に、「この人は初めて私のことをわかってもらえた」と感じることも少なくない。ところが二人が意気投合して同居を始め、結婚してから20年、30年とたつに従い、だんだん二人の間に距離が出来、お互いに相手のことが分からなくなり、相手にわかってもらえるどころか、相手そのものの正体があやしくなり、宇宙人の様にさえ見えてくることがある。おそらく最初の「わかってもらえた」も後の「宇宙人であるかのようにわからなくなった」もどちらも極端なのであろう。しかしどちらも同じようなインパクトを私たちに与えてくるのだ。