こで北山先生の気になる発言。「日本語『愛』が博愛や双方向的な愛の意味で実に気軽に使用されるのだが、そこには虚偽意識や薄っぺらな感覚が伴いやすい」(p102)。この説ではそこに表層的、薄っぺらさというニュアンスが混入しているのか‥‥。北山先生は本来は存在しなかった「愛」と違い、「愛しい」は古来日本に存在し、それは1.見られたものではない。みっともない。2気の毒だ、かわいそうだ、不憫だ、いたわしい 3.かわいらしい、いじらしい
の意味があるという。としてこれも明らかに優者から劣者へ、という上下関係が見られるという。そして次のようにまとめる。日本語での「愛」や「愛しい」は上から下に与える愛であり、甘えは下から上に愛を求めるものとなりやすく、それを「愛の上下関係」と呼ぶ。そして結局乳児が母親を愛すること、小さいものが大きいものを愛するという言葉が日本語にないことを指摘する。それは日本語が下からの愛の衝動に共感的ではなく、抑圧されていると言ってもいい、という。なるほど。そうすると北山先生の極端にも見える以下の立場もそれなりに理屈が通っている。「甘えを観察したり、解釈したりするものは、愛は目下からはやってこないという「愛の上下関係」という愛情観に捉われてはいないだろうか?」(p.105)そして土居先生はこの甘えの上下関係に気が付いていないとする。
