2024年7月14日日曜日

PDの臨床教育 推敲の推敲1

  本稿のテーマはあくまでも「パーソナリティ症(以下PD)の教育の仕方」であり、概念設定をし、具体的に書くというご要望にお応えするものである。つまりPDとは何か、というテキスト的な解説でははなく、どのような注意や配慮のもとに、PDとは何かを若手医師に教育すればいいのか、ということである。

 私達は人に何事かをレクチャーする時、そのテーマの具体的な内容よりは、まずそのテーマの本質やそれが置かれた歴史的な背景について説明することを心がける。つまり各論よりはまず総論を示すということであるが、さらにそれを学ぶ若手の精神科医におさえて欲しいエッセンスについて書くのが本稿の趣旨ということになる。どこまでそれに沿った内容を書くことが出来るかはわからないが、以下にそれを展開することにする。

 私としては最初はあまり基礎知識がない初学者に対して語るつもりで書いてみることにする。しかしそれは私がこのテーマのエキスパートというわけではないにしても、多少なりとの先達としての私の立場からは、「最初から解説してもらえたら、このわかりにくいPDというカテゴリーに対してもう少し早くから親しみを持つことが出来たであろうという」と思える内容を書き綴ることになる。 


PDのエッセンスとは何か
 まずPDとは精神医学では微妙な立ち位置にある。すぐに投薬や入院治療の適応となるような、明白な症状を伴う精神疾患ではない。それはその人の生き方(考え方、感じ方、人との関係の持ち方)のある種の偏りが、その人の生き方を難しくしたり、周囲の人を困らせたりする傾向である。要するにその人の「性格」の問題というわけだが、これは患者やその家族からも聞かれる言葉でもある。

「これは彼の持っている病気というよりは、性格ではないでしょうか?」

と問われる時、それは本来その人が持つ性質として、治療するというよりは受け入れるべきものではないか、というニュアンスと、その人自身が責任を取るべきではないか、という両方のニュアンスが伴うのである。つまりは治療ではなく、責任が問われ、適切な処遇を受けるべきものという意味である。そしてそれはPDは多くの人にとって正常範囲で見られる生き方の特徴についてその程度がやや行き過ぎたものとしてとらえるという意味も含まれる。

 さて現代的なPDの基礎となったのは1980年のDSM-Ⅲに掲げられたPDであるが、上に「生き方」として考え方、感じ方、対人関係の三つをあげたが、それはそこに上手く反映されていた。そこではA,B,C群に分かれ、私は米国でのレジデント時代に、「PDはマッド、バッド、サッドだ」と教わった。A群はmad,B群はbad,C群はsadに分かれると教わった。と。A群はスキゾイドPDなどに象徴される思考過程の特異性を伴ったPD、B群はBPDや反社会性などの対人関係に問題を抱えたPD,そしてC群は回避性PDなどの、感情面での問題を抱えたPDということになる。