2024年6月11日火曜日

「トラウマ本」男性性とトラウマ 1

 男性の性愛性の持つ加害性について、なぜ男性が語らないのか?

  ここで男性の「性愛性」、という言い方をするが、私は実はsexuality を「性愛性」と訳すことには少し疑問がある。むしろ性の性質ということでそこに「愛」が含まれていないのであるから、「性性」と呼びたいところだが、そのような言葉はないので男性の性愛性という表現をこれ以降も用いていく。
 そこでまずは男性の性愛性についてあまり男性が語らないのはなぜかについて、幾つかの可能性を考えたい。
 それは男性自身が持つ恥や罪悪感のせいではないかと考える。そもそも男性の性愛性は恥に満ちていると感じる。それはどういうことか。
  男性は特に罪を犯さなくても、自らの性愛性を暴露されることで社会的信用を失うケースがきわめて多い。最近とある県の知事が女性との不倫の実態を、露骨なラインの文章と共に暴露されたという出来事があった。またある芸人は多目的トイレを用いて女性と性交渉をしたことが報じられて、芸人としての人生を中断したままになっている。これらの問題について男性が正面から扱うという事には様々な難しさが考えられる。
 彼らは違法行為を犯したというわけではないであろうし、そこで明らかな性加害を働いたというわけでもなさそうだ。しかしそれでも社会は彼らに何らかの形で制裁を加えることになるのである。
 このような問題が特に男性の性行動に関して生じやすいことについては、一つの事実が関係している。それはいわゆるパラフィリア(小児性愛、窃視症、露出症、フェティシズムなど)の罹患者が極端に男性に偏っているという事実である。
 パラフィリアはかつては昔倒錯 perversion と呼ばれていたものだが、その差別的なニュアンスの為に1980年代にパラフィリアに変更になったという経緯がある。確かに英語で「He is a pervert!」というと、「あいつはヘンタイ野郎だ!」というかなり否定的で差別的な意味合いが込められるのだ。
 パラフィリアはかつては性倒錯とも異常性欲とも呼ばれていたが、その定義はかなりあいまいである。むしろそれに属するものにより定義されるという所がある。それは盗視障害、露出障害、窃触障害、性的サディズム、性的マゾヒズム障害、フェティシズム障害、異性装障害(トランスベスティズム)、その他である。これらのリストからわかる通り、その性的満足が同意のない他者を巻き込んで達成する形を取る場合には、明らかに病的、ないし異常と言えるだろう。例えばそれは窃視症であり露出症である。相手がそれに臨んで同意している限りはそれは「覗き」とも「露出」とも呼ばれないはずだ。
 しかしこのパラフィリアは複雑な問題をはらんでいる。それは最近あれほど叫ばれている性の多様性に、このパラフィリアの話はほとんど関わっていないからである。もちろん窃視症や露出症が性的な多様性に含まれないことは理解が出来る。しかし例えばフェティシズムの中でも無生命のものに恋する人たち(いわゆる対物性愛 object sexuality, objectophilia)が差別的な扱いを受けるとしたら、それに十分な根拠はないのではないか。男性の性愛性が含み得るこれ等のパラフィア的な傾向が、それだけで病的とされるとしたら、それはそれで問題であろう。そもそも「覗き」や「露出」あるいは小児性愛をファンタジーのレベルにとどめて決して同意していない他者を巻き込まないとしたら、それも病的と言えるのであろうか?
 これらの問題に応える形で、DSM-5の診断基準には、重要な条件が掲げられている。すなわちその行為を「同意していない人に対して実行に移したことがあるか」、または「その行為が臨床的に意味のある苦痛、または社会的、職業的、またはほかの重要な領域における機能の障害を引き起こしているか」の条件を満たすことで初めて障害としてのパラフィリアが診断されるのである。
 しかしフェティシズムの様に生きている対象を含まない場合には、それを最初から精神障害のカテゴリーに入れることに正当な意味はあるのであろうか?
 いずれにせよ男性の性愛性にはそれが加害傾向を必然的に帯びてしまう種類のものが多い一つの理由として、このパラフィリアの問題を示したかったわけである。

ここまで

男性の性愛性の加害性と悲劇性


 ここで男性の性愛性が加害的であるだけでなく、悲劇的であるという私の論点を示したい。一つの悲劇は、サイコパス性や小児性愛の傾向は生得的なものと考えられることである。
 性的な衝動そのものは生理学的なもので、それに善悪の判断を下すべきものではない。というよりはそれが繁殖行動に結びついている限りは、基本的には生命体にとって肯定的なものと判断すべきだろう。
 とすればその人にとって自然な性衝動を満足させる手段が必然的に加害的とならざるを得ないという事は、その人の性愛性が本来的に負のもの、存在が望ましくないものということになり、いわば生まれた時に罪を負っているようなものだ。これは非常に悲劇的な話である。

 さらに深刻とも言えるのは、能動的、積極的な性質は男性の性的ファンタジーや性行動にとって本質の一部であるという可能性である。このテーマはとても大きな問題を示すことになり、ここではその問題の存在を示すだけに留まるが、私自身の立場は男性が性的な関係において積極的であること、ある種の男性の側の能動性と女性の側の受動性が少なくとも男性の側にとって都合がいいと感じるのは、男性の側の脆弱さ、不安、ないしはパフォーマンスフォビアが関係しているという議論を展開したことになる。

 女性の側が男性に性的な関わりを積極的に求めてきた場合を考えよう。男性はそに応じるようチャレンジを受ける立場になり、男性の側に「自分にそのような能力はあるだろうか?」という不安を起こしかねない。そしてそれは一種の去勢不安が生じてもおかしくないのである。彼はその場から逃げ去りたくなるかもしれないし、いざという時にED(勃起不全)を招く可能性もあるだろう。私は男性の性愛性についてかつて、その様な可能性も含めて論じたことがある。(岡野、1998)。
 そこで男性の性愛性を、自分からそれを積極的に相手に求めるという立場の方が、その逆よりも不安を喚起しない、という意味での能動性を有するものと考えると、それは一線を超えて侵入的、破壊的、となる可能性をより多く含むであろう。これは大変大きな問題と言える。 

 男性の性愛性の持つ加害性については、上記の問題を持ち出すまでもなく、以下のような具体的な例を考えを考えるだけでも明らかであるように思われる。ある女性の患者さんは次のように言う。

「今日ここに来るまで我慢して電車に乗ってきましたが、一人の男性が私を上から下までじろっと好奇の目で見たんです。それが実に気持ち悪くてトラウマのようになってしまいました。」

 私は同様の話を多く聞くし、その気持ちに共感する半面、その男性はどのような気持ちでその女性を見たのであろうとも考える。そしてそれは男性としての私自身が女性を見ることへのためらいの気持ちを生む。男性が自分にとって魅力を感じる女性について視線を向けることそれ自体が迷惑であり、加害的であるとしたら、これはもう男性の性愛性そのものが加害的と認めることに近くはないだろうか。