2024年3月4日月曜日

脳科学と臨床心理学 第1章 脳科学のうさん臭さ 加筆部分(2)

 心のソフトウェアは存在するか?

フロイトの話から私自身の体験に戻る。フロイトはハードウェアとしての脳から、心というソフトウェアに軸足を移したわけであるが、私はその逆から出発したことになることは述べた。何しろフロイトが提示してくれたソフトウェアとしての心のモデルはとても魅力的だったからである。しかしそれから私がハードウェアとしての脳に興味を移すことにはある種の気付きが伴っていた。それを端的に言えば,心のソフトウェアはおそらく存在しないという事であった。ある種の妄言めいているが、心というものはいわば幻想であり、それはおそらく誰にもデザインされていないのだ。「心というソフロウェアを作った作者は神のみぞ知る」と先ほど言ったが、実は「神」も心の産物であり、結局は誰も作者はいなかったのだ。

それは恐らく私が自分自身の心や患者さんの心を観察し続けて得た感覚なのである。人の心にいくら法則を措定しても、必ず例外が見られる。例えばフロイトが言った「夢は願望充足である」「人間は想起する代わりに反復する」などの言葉は、人の心の動きの特徴を大雑把に捉えているという点では見事であるが、それに当てはまらない例があまりに多く見られるという点では法則と呼べるものには程遠いのだ。私がいま漠然と考えているのは人が快を求め、不快を回避して生きていることという原則以外には、様々な個別の事情により突き動かされて生きているという事実しかないという事だ。しかしまた人は生きていることに、自分の行動に、そして他者の行動に、また自然現象に様々な意味や理由を見出さずにはいられないという事である。それ以外には様々な生理学的なシステムに操られながら生存しているのだ。

ただしこの心のソフトウェアはおそらく存在しないには代案を用意してある。それは脳においてはソフトウェアとハードウェアとは分かれていず、おそらく両者は同一であるというものだ。そして心を知る一つの具体的な手法は脳の活動を知ることなのだ。そして両者が同一であるということは,デカルト的な二元論から現代的な心身一元論に回帰するということになる。

私の上記の一種の妄言については賛否両論があるだろうが、心を知る一つの具体的な手法は脳の活動を知ることであるという見解には、多くの脳科学者が同意するだろうと思う。私がそう考える理由は2つが挙げられる。

1つには脳の画像技術の発展が目覚ましいからだ。例えばfMRIにより見ることのできる脳の興奮の経時的なパターンは,その時心が刻々と体験している内容にかなりよく対応している。ノセボ効果による痛みと医学的な根拠のある痛みが脳の特定部位における同様の興奮のパターンを示すことなどはその一例だ。

そしてもう1つは,いわゆるニューラルネットワークモデルの発展であり,それを飛躍的に精緻なものにしたディープラーニングの技術である。きわめて膨大なスケールの人工的な神経ネットワークというハードウェアに繰り返し自己学習を行わせることで,人間的な知性と見まごう能力が獲得される。それは2016年に韓国の囲碁のチャンピオンに圧勝したグーグル社のアルファ‐碁や,同じくグーグルの対話ソフトであるLaMDA,そして最近世間をにぎわしているオープンAIのチャットGPTの例が私たちの頭に浮かぶだろう。もちろん「主観性やクオリアを備えた心とAIを混同するな!」というお叱りの声はすぐにでも聞こえてきそうだが。

ということでこの第一章は多少なりとも波乱含みの内容になった。これからの10章の構成は特に計画をしてはいず、完全に筆任せであるが,あくまでも私の体験に基づいて書いていきたいので,どうかお付き合い願いたい。