私の恥についての考えがかなり変更された論文である。
羞恥からパラノイアに至るプロセス
臨床心理学 23 (4), 401-407, 2023-07
地獄は他者か
恥というテーマは、私が1982年に精神科医になって最初に取り組んだ問題であるが、本稿の執筆を機会にこれまでの考えを振り返りつつ、再考を加えたい。今回の特集の大きなテーマは「恥は敵か味方か?」である。恥が私たちにとって防衛的に働くというプラスの側面とは別に、自分にとっても周囲にとってもネガティブに働くという側面について特に論じたい。
まずは私のこのテーマとの関りについて簡単に述べる。私はいわゆる対人恐怖症への関心から出発した。つまり恥の持つ病理性に着目していたのである。恥は広範な感情体験を包み込むが、その中でも特に「恥辱 shame」と呼ばれる感情は、深刻な自己価値感の低下を伴い、一種のトラウマ的な体験ともなりうる。私たちの多くは、そのような体験をいかに回避し、過去のその様な体験の残滓といかに折り合いをつけるかということを重要なテーマとして人生を送るのだ。我が国における対人恐怖症や米国のDSMにより概念化されている「社交不安障害」は主としてこの「恥辱」関わることになる。その一方では「羞恥 shyness」として分類される、気恥ずかしさや照れくささの体験は、恥辱のような自己価値感の低下を伴わず、さほど病理性のないものとされる。私自身もどちらかと言えばこの羞恥に関してはあまり関心を寄せないできたという経緯がある。
私がこれまでに世に出した恥に関する著述(岡野、1998、2014、2017)は以上を前提としたものであった。しかしそれらの考察が一段落した今、改めて恥について考える際に、私自身が改めて疑問に思うことがある。
「人と対面するのはなぜこれほど億劫で、心のエネルギーを消費することなのだろう?」
私自身は決して人嫌いというわけではないし、人と会っていて楽しさを覚えることも決して少なくない。しかし一人でいることの方が圧倒的に気が楽なのである。心に潤沢なエネルギーが解放されたままで時を過ごすことが出来るのだ。そして臨床活動をする中で同様の体験を語る人(患者だけでなく関係者を含めて)も非常に多いのである。
私のこれまでの考えは、人が他者との対面を回避するのは、恥辱の体験を恐れるからだ、というものであった。つまり対人恐怖の文脈で考えていたのである。しかし人は必ずしも自らを不甲斐なく情けない存在とはとらえていなくても、他者と会うことに一種の嫌悪感を持つことが多い。それは人と対面する状況そのものの居心地の悪さ、それに伴う労作性、疲労感、エネルギーの消耗の感覚に由来するものなのである。
ちなみに恥の研究について私が私淑している内沼幸雄先生が「間のわるさ」(内沼、1977)と表現しているのは、私がここでいう対面状況に直接由来する居心地の悪さにおおむね相当するように思える。間の悪さ程度では人は深刻には悩まないのかもしれない。しかしそれ自体が苦痛なレベルにまで至る場合もあり得るであろう。
もちろん人と常に群れていたい、誰かと一緒でないと寂しい、という人もたくさんいらっしゃる。(私はひそかに「ワンちゃんタイプ」と呼んでいる。)しかしそれらの人たちにとっても、常に一緒にいたいと感じるのは親しい家族や友人であることが多く、初対面の人との出会いには抵抗を感じたりしり込みをしたりするようである。もし「私は人と出会うのが億劫です」と自認する人の声をあまり聞かないとしたら、おそらく世間から人嫌いと思われたくないからであろう。孤立を好み、人と交わらない傾向を持つことは、社会通念上あまり好ましく思われないからだ。飲み会や忘年会に誘われても及び腰になることは、社交性のない人、付き合いの悪い人として所属集団から敬遠されやすいのだ。少なくとも日本社会ではその傾向が顕著であるように感じる。
ここで私が述べようとしていることを分かりやすく言い換えたい。恥辱のレベルにまで至らない対面状況でも、それは十分に不快なものとなりえるのではないか。そこにすでに恥の体験の本質が垣間見られるのではないか、ということだ。
人と出会うことについて考えるときに私の頭にすぐ浮かんでくるのが、哲学者ジャン=ポール・サルトルが語ったという「地獄とは他者だ L'enfer, c'est les autres」という言葉である。「そうか、他人は本来地獄なのだ、だからそれを恐れるのが当然なのだ」という安心感を与えてくれるのである。それをかの偉大な哲学者が保証してくれているのだ。
他者から単に見られることですでに体験される一種の嫌悪感については、内沼がサルトルを引用して次のように表現する。「純粋な羞恥は、これこれの非難されるべき対象であるという感情ではなくして、むしろ一般に、一つの対象であるという感情であり、・・・根源的な失墜 chute originelle の感情である」(内沼、同著、p.193)。
ただしサルトルはまた、地獄が他者であるという根拠をさらに述べている。彼はこの「地獄とは他者だ」という言葉を、「出口なし」(1952)という戯曲の中で密室に閉じ込められた3人のうちの一人に言わせている。私たち人間は自分を他の人の目を通して知るしかない。そしてその他者が私たちを対象化するだけでなく、歪曲された目を持つのであれば、他者は地獄に他ならないと言っているのだ。
私たちは自分を知るために鏡を用いる。それが他者である。しかしその他者は自分にとって好意的な目を向けるという保証はあるだろうか。多くの場合、否、である。他者はライバルや敵ですらある。その目に映る自分を頼りにするしかないのであれば、他者は私たちが決して逃れることができない地獄といえないだろうか?
他者は本来的に地獄である
サルトルが語った「地獄は他者である」はやや思弁的で分かりにくいが、私はこの言葉をもう少しシンプルに捉えたい。他者が地獄であるのは生物としての私たちにとって避けられない現実なのである。自然界で野生動物が他の動物に遭遇した時の反応を考えればいいだろう。自分のテリトリーに侵入してきた他の動物を脅威と感じ、撃退したり、あるいはそれから退避したりするという基本的な性質や能力を備えていない限り、その個体は弱肉強食の世界を生き抜くことはできないだろう。というよりは、そのような個体が淘汰の結果現在残っているのである。結局自然界においても、つがいとなるべき相手や血縁を除いては、他者はまずは脅威として映る。その敵対的なイメージが私たちにとっての鏡になるとしたら、まさにサルトル的な意味で地獄は他者になるのだ。
私達が日常生活ではあまり他者を怖がらないのは、他者は危害を加えてこないだろうとたかをくくっているからだ。親しい友人Aさんと会う時は、あまり警戒はしないであろう。それは「あの温厚なAさん」という内的イメージをすでに持っていて、それを本来は得体のしれないAさんに投影しているからである。ところが通勤途中に道で見知らぬ人に急に話しかけられると、私たちはそれだけで一瞬警戒モードを全開にして身構えるものである。
人間社会においても、私たちが遭遇する他者はいつどのような形でこちらに危害を加えてこないとも限らないが、それを警戒してばかりでは社会生活を営むことは出来ない。だから私達はこの警戒モードを一時的に「オフ」にして、本来は敵対的かも知れない他者とも社会の中で関りを持っているのだ。
ところが私たちは時にはこのオフモードに入ることが出来なくなってしまう様な病態を知っている。例えば心的外傷後ストレス障害(PTSD)などの場合には、誰と会っても、どのような場でも警戒心を解くことが難しくなり、家を出ることさえも恐ろしいことになってしまう場合がある。対人恐怖症や社交不安障害ももちろんこれに該当するのだろう。