改めて治療者の「資質」について考える
精神療法 vol.49.No3. pp.320-321. 金剛出版 に所収
栄えある学術誌「精神療法」の巻頭言を書かせていただく光栄を得た。そこで改めて精神療法家とは何かを考える上で、私のこれまでの経験を振り返りたい。
精神療法は私の専門分野の一つであると自認しているが、自分が精神分析家の資格を有することはその支えのひとつとなっている。私が米国で10年をかけて精神分析家の資格を得たのは2003年である。2004年に帰国して日本精神分析協会でもその資格を認められたのが2005年。訓練分析家になったのはそれから13年後の2018年のことである。ちなみに訓練分析家とは、精神分析家になるためのトレーニングを受けている方々(候補生という)の精神分析(いわゆる「教育分析」)を委託される立場である。現在日本の精神分析協会では13名がその資格を有し、私はその一人というわけである。
精神分析家の訓練の最終段階であるこの資格を持っているということについては、私にもそれなりに満足感がある。そして私をこれまで導いてくださった先生方や仲間、そして協力を惜しまなかった家族に感謝の念がある。しかし私は同時に若干の後ろめたさを感じる。「こんな私が訓練分析家でいいのだろうか?」「私にそれだけの資質があるのだろうか?」という疑いは常に頭をかすめる。それはなぜだろうか?
そもそも私は日本で分析家の資格を認められた後も、その上の訓練分析家を目指すということは頭にはなかった。精神科医としての外来の仕事と大学院での教育のかけもちで、とてもそれどころではなかったというのが正直なところであった。しかし「キミも訓練分析家の資格にチャレンジしてみたらいいじゃないか?」と、大先輩の分析家A先生からの思いがけない励ましがあり、もうひと踏ん張りしようという気持ちになった。そして新たな覚悟で週4回の精神分析のケースを再び持ち始めた。それは大学院や病院勤務、そして家庭生活などに様々な影響を及ぼすこととなったが、気が付くと数年後に私は訓練分析家になるための関門をクリアー出来て、晴れて教育分析家になったのである。そしてそこから振り返って何が見えるのか、ということがこの「巻頭言」で語ってみたいことなのだ。
私が改めて思うのは、精神分析協会というのは一種のヒエラルキーの支配する世界であるということだ。そして分析家や訓練分析家はある種の権威を不可避的に伴うのである。そのヒエラルキーを上り詰めることにはある種の手続きが必要となる。それには相当の時間と労力が必要となり、それをクリアーする事のできた人間が分析家や訓練分析家となるのだ。では彼らは優れた資質を備えた精神療法家であったからこそそれを達成できたのだろうか? 必ずしもそうとは言えないであろう。
もちろん「手続きを踏むことの出来た人」と「療法家として優れた資質を持つ人」が全然別物ということはないだろう。しかしやはり両者は異なる。「優れた資質を持つ人」とは極めて漠然とした言い方だが、その様なものがあることにしてここでは話を進める。するとそれをあまり持たない人が程よい知性を備え、強い目的意識を維持しつつ所定の「手続き」を踏めば、その人が精神分析家や訓練分析家になる可能性はかなり高いであろうというのが、私の経験から言えることだ。もちろんそのトレーニングにかかるであろう数年~10年以上の期間を支える資力と家族の支えが得られ、そしてある程度の運があるならば、の話であるが。
ここで改めて問おう。「資質」を伴わない分析家がヒエラルキーの上に立ち、権威を持つことには問題が伴わないだろうか? そして分析家になった後にその「資質」がかえって損なわれる可能性があるとすればどうだろう?それを考える上である精神分析系のケースカンファレンスを思い浮かべよう。
発表者のA先生はまだ経験年数が浅く、また精神分析のトレーニングが殆どないとしよう。そして助言者は名の知れた精神分析家B先生である。ここでA先生のケース報告の中に見られたある治療的な介入について、B先生が批判めいたコメントをするとしよう。A先生は自分のケースとの関りにある程度の根拠や自信があったとしても、B先生に反論したり議論を持ち掛けたりすることはおそらく起きないであろう。というのはその決着が見えているからだ。それはA先生の力量不足、経験不足ということで終わる可能性が高い。たとえA先生の側に一理あったとしても、そしてA先生自身が実は「資質」を備えつつある治療者でも、やはり最後にものを言うのは分析家としての権威を伴ったB先生の主張であろう。特にA先生の治療的な介入が伝統的な分析的態度からやや外れていると見なされる場合には、この傾向が著しいだろう。
ここで問題となっている「資質」についてもうすこし明らかにする必要があろう。もちろんそれについての臨床家のコンセンサスはあってないに等しいが、私にとって「資質」を有するのがどの様な人かはかなり明確である。それは自分の身内の誰かが治療を必要とした時に、安心して委ねることが出来ると思える人だ。もっと言えば私自身が必要な時には安心して話を聞いてもらいたいと感じられる人である。私というどうしようもない部分を持つ人間を、自分と同じひとりの人間として受け止めてくれる人だ。もう少しわかりやすい言葉でいえば「謙虚」な人だ。欲を言えば、確かな臨床経験に裏付けられた慎ましさを備えた治療者である。自分の価値観を持ちつつもそれを絶対視せず、他者のそれを認めるような治療者である。
この様に私が考える「資質」とは、その人が生まれ持ったものとは言えない部分がある。それは人生経験により獲得されていくものかもしれないし、逆に失われていくものかもしれないのである。その意味では先ほどのB先生も分析家になる前は、それなりの「資質」を有しつつあった可能性がある。B先生は自分なりの考え方を持つ一方では、異なる考え方を持つ他者をも尊重するという立場を取っていたかもしれない。そもそも人間はあまり自信がない時は「謙虚」であらざるを得ないのだ。
しかしB先生は分析家になるための階段を上り詰める中で自分の経験にもとづいた、あるいは誰かから借り受けた考え方にも少しずつ自信を持ち、それが唯一の正解であると考え始めるかもしれない。そしてB先生が分析家の資格を得るころには、「これはあくまでも私個人の考えですよ」と前置きをし、その他の考えを容認する姿勢を保とうとしても、周囲が「いや先生のおっしゃる通りです」というメッセージを送ってくるだろう。B先生が分析家になり、その権威をいつの間にか背負うことで治療者の「資質」を失って行ったとしたら、これほど皮肉なことはないだろう。
私がここで述べる「資質」はある種のトレーニングで獲得できるものだろうか?それにはあまり期待は持てないかも知れない。いったんトレーニングがシステム化されることでヒエラルキーや権威の問題は必然的に生じるからである。しかし確かに言えることは、その「資質」は患者とのやり取りの中で各瞬間に問われていることなのである。