2023年11月27日月曜日

未収録論文 4 オンラインと精神療法、精神分析

この論文は2年以上前に精神分析協会で発表したものだ。論文にはしたことがないが、未収録論文1と少し被っている。書いていて面白かったのは、オンラインでの面接では、対話者の目線は原理上決して合うことはないのだ、という発見である。 その部分に下線を施してある。(この文章もどこにも所収不可能という気がするが。)


  オンラインと精神療法、精神分析

 日本精神分析協会 令和3年度大会
 シンポジウム;オンライン・精神分析の実践と訓練の可能性

1.はじめに

オンラインによる精神分析的な治療がどの程度可能かについて考察するが、このテーマにはいくつかの問題が含まれていると考える。
 一つはオンラインによる治療が従来行われてきた精神分析の実践の質をどの程度保証できるのか、果たしてそれは対面によるセッションと同等のレベルにあるものとして扱われるべきなのか、それとも質の劣る代替手段 poor substituteなのか、あるいはそもそも代替手段とはなりえないのか、という問題である。
 もう一つは、従来私たちが考えている週4回以上、寝椅子を用いるという治療形態以外の治療構造のもとに行われるオンライン・セッションを、今後どの程度精神分析の訓練の一環として用いることができるのか、という問題である。こちらの方はもちろんオンライン・セッション以外の治療形態についてもその考察の対象とすべき問題である。フロイトが始めた週6回の寝椅子を用いた精神分析は、その後それに変更を加えようとする様々な試みがなされた。それらは電話を用いたセッション、メールを用いたセッション、一日複数回のセッション、週末だけに固めたセッション、あるいはいわゆるシャトルアナリシスなどであり、日本では古澤の「背面椅子式自由連想法」があった。これを訓練の一環としてどの程度認めるのかはこれまでもたくさん議論されてきたことである。ただこの問題はとてもすそ野が広いテーマなのでこの発表では特に論じる予定はない。

最初に用語の問題であるが、電話やインターネットを用いた精神分析的な試みは様々な名称で呼ばれ、また議論されてきている。これまで videoconference analysis, Technology-assisted analysis, remote psychoanalytic work, teleanalysis などの用語が用いられてきた。このシンポジウムのテーマは「オンライン」という言葉を用いているので、ZOOMやSkype等を用いたセッションをオンライン・セッション、略して「OS」と表現させていただく。また治療者と被治療者のことを簡便に、セラピストとクライエント、という呼び方にとどめておく。なぜなら、たとえばアナリスト、アナリザンドという言い方を用いると、これがOSを介しての精神分析の一つの形式として用いられることを前提としているかの印象を与えるかもしれないからだ。
 このOSの問題は、昨年以来私たちを悩ませているCOVID-19 の出現よりかなり前から論じられていたが、論文の数としてはそれほど多くはなかった。しかし現在ではCOVID-19との関連で様々な研究が行われたり、論文が発表されたりしていると想像する。紙ベースで送られてくるInternational Journal of PAの最新号にも、すでにいくつかのコロナ関係やteleanalysisについての論文が見られている。本来はこのような発表にあたってそれらの文献を読むことから始めるべきであるが、限られた発表時間なので、まずはこの問題に関する私の個人的な経験を整理したい。 

2.オンライン・セッションに関する個人的な体験 

私の体験からお話すれば、私は昨年の春まではZOOMを用いた対話というものをほとんど体験していなかった。それが心理面接やスーパービジョンの代替手段になるともあまり真剣に考えていなかったし、それを用いたカンファレンスや研究会にもそれほど興味を持っていなかった。実際の対面での面接や研究会などにはとてもかなわないだろうと思っていたからだ。しかし新型コロナの影響でやむを得ずZOOMなどを様々な場面で用いることになり、OSは思っていた以上に活用ができることに驚いているというのが正直なところである。ただしOSは、カメラ・オンとオフでかなり異なるという実感があり、時と場合により両者を使い分ける必要があると考えている。 

カメラ・オンの体験

ZOOMなどでお互いにカメラ・オンで行うOSは、設定によっては相手の顔が大写しになり、自分の顔も大写しになるという特徴がある。ZOOMを用いるようになり、私たちの多くはセッション中の自分の顔をまじまじと見るという体験をセラピストとして初めて持ったのではないか。そしてこれは一部の自己愛的な傾向を有するセラピストを除いては、あまり心地いい体験とはなっていないようである。私自身はたとえカメラ・オンの場合でも自分自身の顔は見えないようにしたり、きわめて小さいサイズに保ったままにしたりし、相手の顔もかなり小さくする傾向にある。そして相手側がどの様な設定にしているかは、カメラ・オンか、カメラ・オフか以外にはわからないので、かなり個々のユーザーに自由な選択の余地があることになる。例えば相手がカメラ・オンでも、こちらがその顔を意図的に遮断するということが可能なのであり、そのことを相手が気が付かないという状況をOSでは作ることができるのだ。
 ここで一つ気が付くことだが、カメラ・オンのOSは、それでもクライエントとの視線は決して正確には合わないということである。ふつう私たちはモニターに映ったクライエントの顔に向かって話す。決してカメラに向かって、ではない。そしてクライエントもモニターの私に向かって話すのであり、カメラに向かってではない。ということは両者は決して正確には目線を合わせることができない。目線を合わせようとすると両者がカメラに向かって話すことになるが、そこには相手の顔は映っていないことになる。逆にもし相手が自分の目を見据えて話してきていると感じたら、実は相手はこちらの目線をそらせてカメラを見ていることになる。(実際にカメラ・オンにした時の自分と目線を合わせようとしてみるとよい。決して自分と目を合わせることはできないのである。)私は実はカメラ・オンのOSが持つこのユニークな特徴は、視線を合わすことのストレスをかなり軽減しているのではないかと考える。しかしこの件はまた後程改めて論じよう。

(以下略)