さいごに サリエンシーの脳科学
快と不快の問題について改めて振り返ると、最終共通経路説のようなシンプルな図式では結局説明や理解が出来ないことが分かった。それどころか快や不快は脳の様々な部位において実に複雑極まりないメカニズムで私達の体験を彩っていることが分かる。そしてもはや「私たちは快感を希求して行動をする」という一見当たり前の原則自体が怪しいことがわかる。
WとLの乖離に見たように、私達は実際にそれに関わっている時にはもはや心地よさを味わえなくても希求するようになる。L自体はマイナスなのに、それを味わっていないことが苦しいからそれを欲する(W)。それが先に見た渇望という現象である。そこで快楽原則は次のように書き直す必要がある。「私たちは快/苦痛の回避を希求して行動する」。結局それがフロイトが唱えた「快・不快原則」そのものという事になり、100年前の彼はこの最も基本的な原則にはすでに到達していたのだ。
この快と不快のテーマを去るのは名残惜しいが、もう紙数が残されていないので(実はオンラインなのでそんなものはないのだが)、一つこのテーマに付け加えておきたいことがある。それは強迫というこれまだ不思議な現象である。強迫行為(compulsion) とは、たとえば自分の手が汚れているように思えて(強迫思考 obsession) 何度も洗ってしまうような行為をさす。あるいは出がけに家の鍵を締め忘れた気がして何度もチェックしに帰るといった行為である。頭ではもう大丈夫だとわかっているが、それを繰り返さないと気が済まないし、再度手を洗ったりカギを確かめたりした後に、再び気になり、繰り返さないではいられなくなる。
この強迫思考や強迫行為は、事実上嗜癖や渇望と同じ構造を持つという事が分かるであろう。行動の結果得られるのは決して快そのものではなく、苦痛の更なる高まりを回避したことによる一時的な安堵なのである。
嗜癖の場合は実際の薬物の使用やギャンブルに勝つことなどの快感が切っ掛けになるが、この強迫については、実はほんの些細なこと、ないしは偶発的なことでありうる。なぜそんなことが気になるかが、本人にもわからないという事がほとんどだ。
ある患者さんは、顔に手をやっていてたまたま右の頬できた目立たない小さなできものに気が付く。そしてそれをじっているうちに血が出てしまった。しばらく放っておくと瘡蓋が出来て治りかけたようなのだが、なぜか気になる。そこでいじっていると、またそれをはがして出血してしまう。それを繰り返すうちにできものの後はどんどん大きくなり目立つようになってしまったがどうしても止められない。
この種の経験は、程度の差はあるであろうが、読者の皆さんが体験なさっているだろう。どうしてそれが右ほほのニキビのあとであり、左中指の爪の端っこのささくれでないのか、という問題に答えはない。たまたま意識がその部分に取り付いてしまったのである。。
私達の意識の中に、というよりは脳の中にポツンと存在し、それが渇望やフラッシュバックや強迫行動などの強烈な反応を引き起こすもの。その正体は何か。心理学や脳科学ではそれをサリエンシー saliency (顕著性、などと言う訳語がある) などと呼び、それが重要な研究課題となっている。しかしその様な新しい呼び方を作ったからと言って、人間の快や強迫の問題は少しも解決したことにはならない。そしてこの種の問題は生命体である私たちの身にのみ起きる現象であり、知性を持つのみのAIには縁遠い問題である。快や苦痛、嗜癖、渇望・・・・これらの存在はいずれも人間の心をAIとははるかにかけ離れた存在にしているのだ。