2023年9月2日土曜日

連載エッセイ 8の5

 以下は非常に自由に思いのままを描いたので、大いに間違っている可能性がある、ということをお断りしたい。私の単なる想像だ、とさえ言っておきたい。その意味でこの8回目はまだ草稿のまた草稿の段階である。 


 分離脳が示す人の心の在り方

 最終的にこの左右の脳の違いが示唆する人の心の在り方についてまとめたい。右脳と左脳のあり方が示唆していることは、実はとても失望するような人間の在り方と言えるかもしれない。

 人の心の真の姿は右脳が代表する。外からの情報をまず切り取って情緒的な判断をするのは右脳だ。そしてそれに基づいた行動さえ起こしかけるであろう。他方では左脳はそれが社会の中でどのように見られるかという観点から理由付けをする。なぜならそれは人に説明するためのものだからだ。そしてこれまで見たように、左脳はそれをかなりあからさまに行うのである。それは人を騙そうという意図さえも感じない。自分の動かない左手を見て、「それは私の手ではありません』とさえいうのである。誰がそれを信じようか。これは騙そうという域を超えている。

 ここで脳の基本的な特徴を思い出していただきたい。部分は孤立すると暴走するのだ。左脳は論理的であるが、それは文章としての整合性を整えるものの、正確さ、正しさを追求するわけではない。極端な理屈でも言葉に出来るものであれば採用する。つまり暴走して歯止めが利かなくなるわけである。

 左脳自体はそのために妄想的にすらなることが知られている。右前頭葉の損傷などで妄想は一つの症状とさえなりうる。左脳の中でも運動性言語中枢であるブローカ野が感覚性言語中枢であるウェルニッケ野から切り離されると、ウェルニッケ失語症と言って、言葉は流暢で多弁ですらあるが、人の言葉を理解できず、また言い間違いが多く、意味のない言葉を羅列する等の様子が見られる。つまり喋る能力だけが切り離されて暴走するロボットのようになってしまう。おそらくそのような左脳に道徳的であることを要求することは出来ず、またその様な機能を最初から持っていないとさえ考えることが出来るのだ。極端な話、左脳は心のない、ロボットといえないだろうか。

  結局次のように言えるだろうか? 左右の脳は相互補完的であり、2つがあって一つなのである。決して片方だけでは役に立たない。しかしどちらかと言えば優位なのは右脳の方だ。よく精神科の本には左脳が優位半球とされている。左脳は言葉を操り、認知機能を発揮する。しかしそれはあくまでも右脳あっての話なのだ。右脳から切り離された左脳ほどひ弱な存在はない。何しろ道徳的な判断が出来ないからである。

  以上のように考えると、左右脳を有する私たちの心は、「葛藤を抱えた存在」ということが出来るであろう。右脳は私たちの真の気持ちだと言った。例えばあなたの朝の通勤途中に、見知らぬ人が道で何かに困っているのを見かけたとしよう。あなたは「何とかしてあげたい」と思うかもしれないが、「遅刻するといけないから、見ないことにしておこう」とも思うかもしれない。この二つの気持ちはそれぞれが自分に異なる行動を要請することになる。一方は「足を止めて、その人物に近づけ」であり、もう一つは「足早に通り過ぎろ」である。これは左右脳の存在のために起きる葛藤だ。このことは例えばそのようなシーンを映画で見た場合と比べてみればわかる。後者であれば、「かわいそうだから、その人に手を差し伸べなくては」という言葉も「その人を無視して先を急ごう」という言葉も浮かばないであろう。「その場にあなたがいたらどう感じますか?」と特別の質問を向けられない限りは言語化されない内容なのだ。つまり左脳の機能は本格的に動員されることはないのであり、その意味では葛藤は軽減されたり必要でなくなったりする。そしておそらくはあまり記憶に残らない可能性がある。分離脳の観察者たちが一様に言うのは、彼らがあれこど深刻な術式を施された割には、ケロッとして悩みを訴えないということだ。分離脳においては互いは相手の脳を求めないらしいのだ(Gazzaniga)。