2022年12月16日金曜日

発達障害とPD 4

 以上を前提として対面状況がどの様に体験されるかを、SD(スキゾイド)とASDで比べてみる。SDでは対人場面での間合い、空白を苦痛と感じる。この空白は「しらけ」と言ってもいいかもしれない。対人間の空白、ないし「しらけ」とは一種の臨界状況とみていい。二人の間に広がりつつある空白をどのように、どちらが処理するかの駆け引き、せめぎあいが起きる。これは必要以上に広がると「事故」になる。NHKなどで二人のキャスターがやり取りをしながら番組を進めるところを想像しよう。おそらく二秒くらいの空白はすぐに「しらけ」となり、間違いなく放送事故となるのだ。学生の頃よく教室でざわついている時一瞬空白が生まれると、その後爆笑になるというシーンを体験したことがあるだろう。笑い飛ばすことによりすぐに解消することが出来る空白は、そうやって弄ぶことさえできる。でもSDの人にはそのような芸当はできない。
 ASDでは「しらけ」を解消する能力を大きく欠いている。というよりは白けの感覚がつかめない。彼らが一生懸命何かを話していて、周囲がシラーッとするということはしばしば起きる。要するに「空気の共有」ができないのだ。自分がそこを何らかの形で埋める場合、相手との関係を踏まえてのことではないため、場を台無しにしてしまうということがある。ASDでは
それが生じやすいのだが、結果的に自分が受け入れられていない状態になってしまったという感覚だけはあり、仲間外れになり、寂しく、また自暴自棄、ないしはパニックになる。それが周囲をさらに当惑させる。
 SDではもちろん空気はわかる。しらけは感じるし、それを埋めようとすることの意味も分かる。でも基本的にはそれが得意でないか、またはエネルギーをとても使う。そのエネルギーは彼の恥の感覚からくる大脳皮質の抑制に由来する。彼は友達付き合いが嫌いなわけではないし、その気になったら楽しめる。しかしそれは重力が地球の二倍の天体の上で活動するのにも似てしんどいのだ。しかし例えばアルコールにより大脳皮質からの抑制が取れると身軽になる。志村けんさんは酒が入れば、あるいはバカ殿のかつらをかぶれば身軽になれてスキゾイドの殻を破ることが出来たというわけである。