2022年12月12日月曜日

発達障害とPD 3

  さて以上の前提の上で改めて定義を見直してみよう。シゾイドのエッセンスは以下のようなものだ。DSMでは「シゾイドパーソナリティ障害は,社会的関係からの離脱および全般的な無関心ならびに対人関係における感情の幅の狭さの広汎なパターンを特徴とする。」となる。他方ASDについては同じくDSMでは「相互の対人的、情緒的関係の欠落、異常な近づき方、会話やお喋りの出来なさ、興味、情動、感情を共有することの難しさ。対人的相互反応で非言語的コミュニケーション行動をとることの欠如、人間関係を発展させ、維持し、それを理解することの欠如。」
 ナンだ。結構違うじゃないか。こう読むとかなり違う病理、病態を想定していることになる。ちょっと特徴を抽出するために極端な言い方になるが、要するにシゾイドでは、対人関係を作ることが苦手というわけではない。ただ関心がない、ということになる。人に会うことで感情が揺れることが少ない。
 それに比べてASDでは本人は人と交わりたくでもスキルが伴わず、浮いてしまう。意欲はあっても能力が伴わない、というニュアンスだ。だから両者は全然違うはずだ。そこで改めて問う。両者にはどうして鑑別の必要が生じるのだろうか。いよいよこの文の核心部分だ。そして思いっきり私の私見(偏見)である。
 私の考えでは、人に関心がない、人との関係で心が動かないということは極めて例外的な事であり、そのような人がいるとしても決して多くないと考える。もちろん人嫌いな人はいる。孤独を好む人もいる。でもそれは他人に関心がない、というのとは少し違う。ある大リーグで大活躍したA選手は、試合の後チームメートに誘われても一人でかえってカレーを食べることが多く、なかなか溶け込めなかったという話を読んだ。実は私も同じ傾向があるのでこの気持ちはよく分かる。でもそれは人に関心がないということでは全然ない。A選手も同じだろう。簡単に言えば、人といる時のストレスが大きいので、なるべく一人になりたいということである。なぜストレスなのか。例えば私は家族と一緒の場合はあまりストレスはない。食事などを一人で取るよりは家族との方が楽しい。家族以外の他人からの視線にさらされることがストレスなのだ。だからと言って大勢の人の前に出ることが苦痛というわけでもない。あまり好きではないが耐えられる。
 「人の視線を浴びることのストレス」の正体はなかなか難しい。さらに厄介なのは人には「視線を浴びることの快感」が体験されることもある。そしてこれらが共存する場合が多いから厄介なのである。私はこの複雑な対人関係上の現象を対人恐怖の文脈で考えるようにしている。そこでは人は自分を他者に見せる部分と隠す部分に分け、前者だけが相手に見え、後者が巧みに隠されるのであれば問題ないと考える。そしてそこで重要になるのが、他者の視線の皮膚感覚の敏感さである。

 例えば皆さんが熱いお湯が好きなら、42度くらいのお湯につかって心地よさを味わうだろう。でもそれではとても熱くて耐えられないという人もいる。そんな温度のお湯には浸かっていても苦しいだけだ、となる。しかしいくら普通は40度を好むと人でも、極寒の中を帰宅した際には、急いで飛び込んだ40度のお湯をものすごく熱く感じるだろう。視線に対する「皮膚感覚」ということでいえば、例えばアルコールが入ったり精神安定剤を服用している時には、かなりそれは鈍感になり、むしろ浴びることの快感が増すことになろう。だから酒が入った時には対人恐怖気味の男性でも人といることがあまり苦痛ではなくなるのだ。