2022年9月27日火曜日

同窓からの寄稿 4

 ちょっとリライトし始めた

私は京都大学教育学研究科をこの春に退官となったが、どうせ請われた原稿ならば、そこでの職務について書くよりは、私の研修医時代について書いてみたい。こちらの方が私の人生にとってははるかに波乱に満ちていたからだ。それに今の教室出身の若い先生方はあまり知ることのない精神科教室の歴史にも触れることになるからである。

私は1982年に東大医学部を卒業し、精神科の研修を開始した。その当時にわが大学での本院の精神科の研修を望んだ卒業生たちは、一つの現実に直面した。大学病院の精神科が真っ二つに分かれている・・・・。それもいびつな別れ方だ。お互いに険悪という言葉をはるかに超えるレベルの対立をしていたのである。通常は外来部門と病棟部門は一つの精神科がともに持つべきものだが、両者は長い間政治的な対立から全く交流が経たれたままになっていたのだ。そこで医学部を卒業した精神科志望の研修医は、本院での研修を望む限り、二つのいずれかを選ばなくてはならなかった。

(ちなみにこのころの様子をお知りになりたかったら、富田先生の著書をお勧めする。 富田 三樹生 (2000) 東大病院精神科の30年―宇都宮病院事件・精神衛生法改正・処遇困難者専門病棟問題. 青弓社 クリティーク叢書 )

外来部門は旧本館ビルの半地下にあり、病棟はそこから100メートルほどの距離にある現在の南研究棟の一階にあり、通称赤レンガ病棟と呼ばれていた。もとは精神科の先生方を両者を行き来していた。当たり前の話である。ところが外来と病棟はそれぞれが政治色の濃い医師の集団により運営され、両者は激しい対立を続けていた。これは1960年代からの学生運動の名残である。精神科を志すがこれらの政治色に染まったところでの研修を敬遠する卒業生は大学病院の今は亡き「分院」での研修を望んだ。

卒業をしたての私は政治のことなどまるで知らず、両者の対立の根の深さなど知る由もない。卒後研修を行う医学生にはそのような対立のために病棟での治療、外来での治療のどちらかしか経験できないのはおかしい、そうする権利があるという至極もっともな理屈でこれに対処しようとした。つまりは二年間の研修のうち一年ごとに外来と病棟での研修を行うことを表明したのである。両者の根強い対立、そこに無知で未経験の研修医が飛び込み、それぞれで研修を行うということ自体がおよそ不可能なことだったということは今になってわかるのであるが、その当時はそのことが分からなかった。若さや無知とは恐ろしいものである。(ちなみに私は対立の根深さを実は感じ取っていたという可能性がある。すると両方での研修を望むことはいかにも無謀な試みだ。だから「知らない」ことにしていたのではないか。うん、これは十分考えられる。