(承前)
実は私はこの解離性障害の方の人権を守るということについて本当に真剣に考えるようになったのが、MPDからDIDへの呼称の変更がきっかけだったのです。1994年にDSM-IVが発表されたとき、MPDという呼び方がなくなりDIDになりました。その時私は別にそこに違和感を感じなかったのです。というよりたくさんの人格がいる、という呼び方で患者さんが偏見の目にさらされるよりは、本来持つべき人格を一つも持てていないのが問題なのだと言ったわけです。私はこれはシュピーゲル先生がDIDの患者さんに対する誤解を解くつもりでおっしゃったこととは思いますが、結果として別の誤解を生んでしまったのではないかと思います。それは彼らはどの人格も決して一人前の人格ではないという誤解です。
この先人たちの残した誤解をここでまとめたいと思います。
最大のものは交代人格を断片 fragments、部分parts、と見なしたことです。DIDや解離の文献を読むと、非常に多く出てくるのが、fragment という言い方です。あるいはパーツという言い方は少しはましですが、それでも誤解を招くのではないかと思います。そしてそれはどうしてかと言えば、彼らは統合こそが治療的な最終到達点と考えていたという可能性があります。
これはいいかえると、心は一つであり、それ以上を一人の人間が持つという事は異常である、という根強い考え方です。しかしこれは恐らく誤りなのです。それは解離性障害の患者さんに会っている限りそう考えざるを得ないからです。
ここで私が意見を申すのであれば、個々の人格は断片というにはあまりに分化して、個別的であり、ほとんど他者と言っていいような性質を持っているからです。それともう一つ、ここの部分は私がうまく表現できるか自信がないところではありますが、あるクオリアの伴った体験を持つとき、意識は一つであるという事です。例えば目の前のバラをバラだ!と認識した時、そこに意識の統一がなされているわけであり、それは部分としての意識の働きではないという事です。ただし無意識部分での体験を言い出すとこの限りではありません。例えば私たちがある意識活動をしている時、心のどこかで、「あ、バラだ」と認知しているかもしれませんね。それは脳のあるモジュールにおいて統一的な体験がなされていると言えるでしょう。その意味で人間がいくつかの体験を並行で持てているという事は、脳にいくつかの統一体が存在しているという事になります。ただし意識できる部分については、それ自身が統一的な活動です。でもそれを言うなら、無意識的な体験は、部分と言っていいでしょう。しかし意識的な体験は統一なのです。そして意識的な活動を行っていると考えられる交代人格もやはり統一体であり、決して部分ではないという事になります。