2021年8月23日月曜日

他者性の問題 15

 始まりかたを少し変えた。

初めに

近年解離性障害に関する関心が高まりを見せ、海外のみならずわが国でもこの障害に関する考察が多くみられるようになってきている。しかしそれに伴い様々な臨床所見が扱われ、数多くの理論化がなされる結果として、概念上の混乱が生じていることが危惧される。精神分析の世界でも解離は昨今扱われることが多いが、スキゾイド現象やスプリッティング、抑圧などの規制の違いなども問題になり、議論は錯綜している。そしてその結果として様々な臨床症状が解離という名ものとにかたられている可能性がある。
 筆者がこの論文で試みるのはDissociationとでも表記すべき「大文字の解離」という概念の提示であるが、これは必然的にdissociationすなわち「小文字の解離」との区分を意図したものである。これが混乱する解離という現象とそれを裏付ける理論にとって有益なものとなることを望む。
 ところで解離をいかに理解するべきかを論じるためには、先人たちの足跡をたどる必要がある。解離の理解にまつわる様々な誤解はやはり精神分析の淵源と深いかかわりがあったのだ。
  精神分析の創始者であるフロイトはブロイアーやシャルコーの影響を受け、現在では解離性障害として理解されているヒステリーへの関心を深めた。しかしその後フロイトは解離への関心を失ったかの如く抑圧とリビドーの理論の方に向かっていった。その際にフロイトが放棄したのは、解離に関する理論的な素地だけではない。過酷でトラウマに満ちた人生を送った患者を扱う機会も放棄したのである(Howell)。そしてその過程は、現在の解離や解離性障害の扱われ方とも共通した点が見られていたのである。その経緯を以下に辿ってみたい。

問題のありか

それでは精神分析において解離性障害はどのように扱われているのか。あるクライエントの話を参考に、一つの状況を再現してみよう。

<中略>

実はこの種の訴えはとてもよく聞かれるのである。解離性の症状は多くの臨床家にとって、そしてとくに精神分析的なオリエンテーションを持った人々によって、むしろそれを認めないという方針を貫く先生方が多いのである。解離性の交代人格はある意味では人として扱われていない、という悲しい、あるいは深刻な現実がここにあるといっていいのだ。そしてそのことが本論文を執筆するうえでの非常に大きな理由となる。