もっと下等な生物の体験に置き換えよう。同様のことは彼らに起きるだろうか。おそらく。例えばカエルが餌となるべきコオロギを至近距離で目にしたとする。彼は目の色を変え、コオロギにとびかかり、捕まえて口に入れてむさぼるだろう。しかしカエルはコオロキをむさぼる前に「やった!」と喜んでいるはずだ。実際にむさぼっていないわけだから、この快は仮想的であり、カエルはコオロギという報酬を「先取り」している。するとカエルは得るべき快をまた実際には手にしていないという認識を持つ。仮想的な快は渇望を呼び、行動を可能にする。カエルにとっては、「先取り報酬」という仮想上の快楽の体験と、それを実現するための行動の必要性の認識が合わさり、それを渇望として体験するだろう。ここでカエルにとってはコオロギに飛びつくという実際の行動を起こすことは決定的に重要であり、渇望はその強い動因となる。おそらくかなり下等な生物の段階でこのメカニズムをしっかり有しているのではないか。仮想的な快→そのために必要な行動→現実の快の獲得という一連の流れである。もちろんそれの逆のバージョンもある。カエルが天敵である蛇ににらまれたらどうか。一目散に逃げるであろう。そこには仮想的な苦痛→それを避けるために必要な行動→現実の苦痛の回避。この二つのルートはもう生命体が生存するために決定的に重要なので、これらのメカニズムを有しない生命体はほぼ考えられないのではないか。
このように生命体は快の源泉と嫌悪刺激の源泉に対してどのような行動を起こすかを常に考えておく必要がある。快の源泉は遠ければ一生懸命追う必要があるし、嫌悪の源泉は常にそれを遠ざけておく必要がある。その実現の近さと行動の迅速さとは常に結びついているはずである。快の約束は、それをもう一生懸命追わなくてもいいだけ、その獲得が約束され、行動への動因が下がる。嫌悪の源泉はそれが近づくと一生懸命逃避をし、遠ざかるとその分だけもう逃げなくてもよくなる。「慣れ」とはそのような現象に関係しているのではないか。