嫌悪の病理として、依存症に関連したトピックについて論じたが、本稿でもう一つ論じるべきテーマがある。それは快や嫌悪と記憶との関連だ。まずそのことの前提として私たちの体験する快や不快には二つの種類があることを理解しよう。一つは生理的、直接的な快ともいうべきものであり、もう一つは仮想的なものである。
動物実験ではサルを使ってトレーニングをすると、最初は果物などの報酬を与えたときに興奮していた報酬系が、それをもらえるとわかった時点での興奮に前倒しされることが分かっている(Schultz 1993)。
この実験で示された報酬系の興奮は、果物を口にした時に生じるものと、果物を将来口にできるとわかった時のものの二種類があると考えることが出来る。ただしこの両者は決して同一のものではない。
もう少し身近な例として渇きに耐えて砂漠を歩く旅人のことを想像しよう。彼ははるか先にオアシスを見つける。その時点で旅人は歓喜にふるえるだろう。それはおそらく報酬系の興奮を伴う。しかし実際にオアシスにたどり着き、ひと掬いの水を口に入れ飲み込む時の快感は、それとは別の種類のものである。このときオアシスを見つけ、将来水にありつけることが分かった時の快をあえて「仮想的な」快と名付けよう。なぜならそれは実際に水を飲んでいることを想像したときのかりそめの快感にすぎないからだ。そして実際に水を飲んだ際の生理的、直接的な快とそれらは明らかに異なるものでなくてはならない。私たちはその違いを知ることで、「仮想的な」快を現実的な快につなげようとする行動が生まれる。
フロイトはその本能論の中で、生下時にはこの「仮想的な」快を現実的なものと混同し、幻覚的な快と称したことは知られる。精神の発達とともにそれが現実には起きていないと知るようになり、一次過程から二次課程に進むというプロセスを明らかにしたのである。
同様の区分はもちろん嫌悪刺激についてもいえる。将来の鞭打ち刑を知らされた囚人は、実際に鞭打たれる前から苦痛を感じるだろう。しかしそれは「仮想的」なものであり、実際に身体的に鞭打たれた時の苦痛、すなわち現実的な苦痛とは全く性質が異なるといわなくてはならない。