2021年6月2日水曜日

嫌悪 4

 こうなると私の頭を時々かすめては否認されている考えがまた浮かんでくる。「人は自分が不幸な境遇にあると思うから苦痛を感じるのではないか?」もしそうだとすると、安楽な生活を知った私たちは、もしかしたら古代人よりも苦痛を体験することになりはしないか。本来なら体験することが出来る安楽さを何らかの事情で体験できないとしたらそれは辛いはずだ。日常生活それ自身が様々な誘惑に囲まれ、それを禁欲しながら生活をしている私たちはそれだけ苦痛を体験しやすいことになる。私がこの問題にこだわるのは、私たちの生活が便利になっても、私たちの幸福感は必ずしも高くなっていないような気がするからである。

もう一つ苦痛を強く感じる条件がある。それは他人によって被害を被ったという場合である。例えばあなたが通勤途中で階段を降りるときに足首を挫いたとする。その痛みは貴方にとって苦痛に違いない。でも自分が足元を十分に確かめていなかったから仕方ないとあきらめるだろう。うっかりしていた自分が悪いのだ。ところがあなたが誰かにふいに背中を押されて足を踏み外して捻挫をしたとしよう。貴方は客観的にみれば同等であるはずの痛みであったとしても、後者の方をより苦痛に感じるのではないか。それは貴方が被害を被ったことにより、本来味わわなくてもいい痛みを体験しているからである。

このように考えると苦痛という体験の性質がにわかにわからなくなってくる。夏の暑さは苦しい。若い方々と違って私は家にエアコンがあるという体験を、20歳代半ばまで体験しなかった。真夏の昼間など扇風機に当たったり日陰でじっとしていることくらいしかできなかった。人は「暑い、暑い」とフーフー言っていた。それは苦痛であったが、それだけである。同じようにして冬は寒さに震え、田舎に住んでいたために最寄りの駅までは砂利道でしかも遠く、通学に骨が折れた。それは苦痛だが当たり前の、運命的な、避けることが出来ないものであった。そのために不幸ではなかったのである。

この問題をトラウマと関連付けて考えることもできる。冷暖房のない生活、水道や電気のない生活は苦痛と言えば苦痛である。でもそれが当たり前の時代には嘆きようがない。ところが現代の世界に行き、快適な生活になれた私たちがそのような境遇に置かれたらさぞかし苦痛であろう。そしてそのような生活をある悪意ある他者のせいで強いられているとしたら、自分の日常生活を台無しにされたという思いを持つかもしれない。つまり特定の人間の加害行為によるトラウマとして体験されるのだ。