さて「甘えの構造」をあらためて読んでみると、土居先生は注目すべきこと、ないしはかなりヤバいことを述べている。アメリカにわたってさほど長くない時期にそこでの医療に触れた土居先生はこんなことを言っている。
「アメリカの精神科医は概して、患者がどうにもならずもがいている状態に対して恐ろしく鈍感であると思うようになった。言い換えれば彼らは患者の隠れた甘えを容易に感知しないのである。」(p.16) つまり患者の苦しみを汲み取ろうとしていないと驚くのだ。でもそこまで言っていいのだろうか。土居先生は時々歯に衣着せぬ言い方をなさった。私も怒られたことがある。まあこのズバッという所がまたいい(日本人離れしていている?)のだが。そして多くの精神科医の話を聞いて彼が以下の結論を下したという。
「精神や感情の専門医を標榜する精神科医も、精神分析的教育を受けたものでさえも、患者の最も深いところにある受け身的愛情希求である甘えを容易には関知しないという事は、私にとってちょっとした驚きであった。文化的条件付けがいかに強固なものであるかという事を私はあらためて思い知らされたのである。(p.16)」
つまり自分から助けを求めない人を先回りをして何かをするというのは彼らの精神にあわないのだという。そして言う。
「私は自立の精神が近代の西洋において顕著となったことを示す一つの論拠として、『神は自ら助けるものを助ける』(p.17)という諺が17世紀になってからポピュラーになって事実を指摘した。」
「実際日本で甘えとして自覚される感情が、欧米では通常、同性愛的感情としてしか経験されえないという事実はまさに我彼の文化的相違を反映する好材料と考えられたのである(p.17)」まあこれはこれで大変なテーマだが先を急ごう。
「甘えるという事は結局母子の分離の事実を心理的に否定しようとするものであるとは言えないだろうか?(p.82)」
幼少時の甘えが正常であることに対し、成人後は甘えるという事が母子分離の否認、という事だという。
「西洋的自由の観念が甘えの否定の上に成り立っている(p.96)」
つまり「好きなことをする」自由は、他の人の「好きなことをする」と抵触しないという前提がある。だから好きなことは他の人にやらせてもらう事とは違う。自由と責任ないしは代償が一つになっているという事を土居先生は言わんとしている。そしてルネッサンス期に活躍した学者 Juan Luis Vives (1492~1540)の文章を以下に引用する。
「受身的愛、すなわち愛を受ける側でありたいという傾向は感謝を生じる。ところで感謝は常に恥と混じり合っている。恥はまた当然感謝の念を妨げるであろう。」(p.96) 「感謝は恥を伴い、その恥はまた感謝の念を妨げると考えるらしい。そこで西洋人は恥の感覚を消そうとして、感謝をあまり感じないように、したがって受け身的愛を感じないように長年努めて来たのではないか。(p.96)」
この文章は、恥を「負い目」と読み替えるのであれば分かる。だって人に感謝することには恥を伴う、っておかしいじゃないか。もちろん Vives さんや土居先生言いたいことはわかる。こちらの自尊心を低めるというニュアンスなのだろうか。誰かに「ありがとう」という事には気恥ずかしさが伴うことは確かだ。それをしてもらうことで恩恵を被るという事は、自分の中の不足な部分、至らない部分を認めることになる。目の前に食べ物を差し出されて心から「有難う!」と言えるとしたら、その人はお腹が空いていることになる。