このようにフロイトの議論は対象や人を失うという体験についてのものである。しかしこのエッセイはまた人の命の儚さ、死すべき運命についても間接的に触れているようにも思われる。Freud appears to be
hinting at his attitude toward our mortality and meaning of our life, instead
of limiting his discussion to just beauty.
このエッセイはさまざまな論点を含み、種々のファンタジーを呼び起こしてもおかしくない。そしてこの著者にとっては、次の点が論点として浮かび上がってくる。まず主張2に関しては、この「儚さ」の論文が「喪とメランコリー」の直後に書かれたこともあり、喪の作業というテーマがこれから磨き上げられていく過程のものとして理解可能である。のちに述べるように、フロイトはやがて喪の作業は容易には終結していかないという見解へと移っているのだ。しかし主張1については、対象が儚さゆえに価値がさらに増すという根拠は明確に述べられていない。もちろんフロイトは、Transience value is
scarcity value in time”と言っているが、そこに特に根拠を示していない。しかしこのことはフロイトが詩人を引き合いに出していることからも、フロイトにとって重大な関心事であったという事がうかがえる。そしてこのことを明らかにすることは、喪の作業を行うことが、そして自らの死すべき運命を受け入れることがある種の価値を伴う体験であるという主張に根拠を与えることにつながるのではないか。
「儚さについて」のエッセイが私たちに促しているのは、このエッセイを通してフロイトが人の命も含めた儚さの受容がいかに美や価値と結びつくのかを、フロイトの後を継いで探求することなのである。