さてKについての章の後半でベッカーが語るのは、最終的に人が至るべきなのは faith だ、という事なのである。やはりそこに来るか。そしてこの部分はフロイトの「死の味見 foretaste of mourning」の話にもつながるのだが、このように書いてある。死がそこにあるかのように味わえ。貴方の生きた身体の舌がそれを味わった時だけに、自分が死すべき創造物であることが分かるのだ。As Luther urges us: “I say die, i.e., taste death as though it were present”. It is only if you “taste” death with the lips of your living body that you can know emotionally that you are a creature who will die.
これにはウィリアム・ジェームスも賛同して同様のことを記載しているという。そしてこれはLutheran theory ルター理論とも呼ばれているらしい。そしてKはこれを究極の超克と呼ぶという。Kは言う。人が究極の力との関係性を考えた場合、最終的な自由に対して開かれる。そしてそれがfaith
信じることであるというのだ。しかしこうなると、faith とは何ぞや、という事になる。辞書的に言えば、complete trust or confidence in someone or something. 誰かや何かに対する完全な信頼や自信。要するに疑わないこと。
しかし私にとってはfaith という事で真っ先に頭に浮かぶのは、フロイトが自らのリビドー論に持っていた盲目的な確信だったりするのである。それはある種の感情を伴ったものであった。彼はその正しさに faith を持っていたのだ。(しかしこう考えると揺らぎとはこれと全く逆という事になりはしないか。) Faith とは私たちがそれに身をゆだねることに近いと言えるが、それが死すべき運命を自覚するという事とどのようにつながるのだろうか。これについての私の考えは、死を可能な限りにおいて想像し、味わえという事だ。“ I say die, i.e., taste
death as though it were present ” と書いてあったではないか。そうするためにはもう混じりけのない心、faith しかないという事だろう。しかし次のようにも言えないだろうか。自分は○○である。自分は人としてのプライドがある、などの思考は、ことごとく「囚われのヒロイズムprison heroism 」(p.87)なのだ。という事は徹底して謙虚であれ、という事か。自分をアリンコと思え、というわけだ。そうか、感謝、アリンコ、faith 謙虚さ、という事らしい。