ともかくもこの本は反精神分析的である。フロイトはその人生の終わりに近づくにつれ、アドラーが言っていたこと、すなわち子供を悩ませることは、自分の内的な欲動ではなく、世の理(ことわり)の不条理さなのだ、ということを理解するようになったという(p.52)。これには私は同意する。フロイトが性愛性という拘りを引きずる限りは、結局死生学についても真に価値あるものを作ることは出来なかったのかもしれない。もちろんそこまでは書いていないが。子供が身に着けるのは自らの不能impotence を意識から消し去ることであるが、それは死を回避することができないことのみならず、独り立ちすることの恐怖を抑圧することだ、と言っている。この独り立ちすることの恐怖、というのはマズローも言っているとベッカーは書いているのだが、私にはピンとこない。ひとり立ちすることは不安でもあるが、快感でもあるからだ。そのマズローであるが、十全な人間らしさを楽しむことが人生の目的であるというか書き方をしているが、ベッカーに言わせると、十全たる人間らしさとは、恐れと震えを、少なくとも日常の一時ではあれ体験することなのだ、という。
これに続くベッカーの議論は私なりに飲み込むことができる。
さてこのような議論の後,ようやくキルゲゴールについての章(