2020年12月24日木曜日

死生論 22

 ともかくもこの本は反精神分析的である。フロイトはその人生の終わりに近づくにつれ、アドラーが言っていたこと、すなわち子供を悩ませることは、自分の内的な欲動ではなく、世の理(ことわり)の不条理さなのだ、ということを理解するようになったという(p.52)。これには私は同意する。フロイトが性愛性という拘りを引きずる限りは、結局死生学についても真に価値あるものを作ることは出来なかったのかもしれない。もちろんそこまでは書いていないが。子供が身に着けるのは自らの不能impotence を意識から消し去ることであるが、それは死を回避することができないことのみならず、独り立ちすることの恐怖を抑圧することだ、と言っている。この独り立ちすることの恐怖、というのはマズローも言っているとベッカーは書いているのだが、私にはピンとこない。ひとり立ちすることは不安でもあるが、快感でもあるからだ。そのマズローであるが、十全な人間らしさを楽しむことが人生の目的であるというか書き方をしているが、ベッカーに言わせると、十全たる人間らしさとは、恐れと震えを、少なくとも日常の一時ではあれ体験することなのだ、という。

これに続くベッカーの議論は私なりに飲み込むことができる。彼はフロイトが考えた人間の運命、すなわち性的欲動や攻撃性といった動物的な本能にとらわれた人間という理解は人間の本質をとらえているのではなく、むしろ人の不条理な在り方、死すべき運命をその本質部分としてとらえたアドラーやランク、そしてサールズを称揚する。サールズの唱えた分裂病の在り方はその意味では理にかなっている。彼らは神経症者が持っている防衛、すなわち死すべき運命を否認する能力を欠いているために、常に不安にさいなまれているという。神経症者が容易に受け入れる社会規範やバイアスを持てない彼らの不安や苦悩はそれだけ甚大だというのである。

さてこのような議論の後,ようやくキルゲゴールについての章(5章)に入る。