では死の恐怖はどのように処理されるのか。ここでベッカーは抑圧というプロセスを挙げる。子供は死の恐怖をごく自然に有するが、そのうちそれは抑圧されるようになる。と言っても抑圧は単に何事かを遠ざけるだけではない。それは私たちの生のエネルギーを用いて、死の恐怖を無視し、あるいは生の展開するプロセスの中に吸収させるという。そしてそれだけでなく、死への恐れは変形 transmute される。形を変えるというのだ。例えば子供は親と同一化することでその抑圧が成就するという。そして親が、周囲の人間が平気で死を抑圧しているのに同一化し、それを自分のものとする。皆が死を克服していることで、その人と同一化することで死への恐怖は抑圧されうる。(逆に「私は全身癌だけどヘーキよ。どうせ人は死ぬんだし。遅いか早いかだけよ。」という樹木希林さんの言葉により、いわばその人に同一化することで、死への恐怖は軽減されたと体験する人もいただろう。)これをウィリアム・ジェームスはこう表現したという。「その瞬間に生き、無視し、忘却する奇妙なパワー。Strange power of living in the moment and ignoring and forgetting」。ベッカーは精神病でこの抑圧の機制が効かなくなることで死の不安が強烈に迫ってくると書いてある。これは抑うつ状態についてもいえるかもしれない。何事かに没頭できなくなることは、それだけ死の恐怖をなまに感じることにつながるわけだ。
そこで再び実存的なジレンマについてである。あらゆる哲学者がこれを扱っている。キルケゴール、ユング、フロム、ロロ・メイ、マズロー、サールズ、ノーマン・ブラウン、などなど。(フロイトが出てこない!?) このパラドックスのことを私たちは 「individuality within
finitude 有限の中の個」と呼ぶことができるという。ノーマン・ブラウンによれば、この自己と体の問題が、フロイトの肛門期の問題として見事に説明されているというのだ。彼によれば自分が排泄するという事実もまた否認される傾向にあるということか。何しろ排泄物は破壊や死を表現しているからだ、という。
さてフロイトに関する議論では、エディパルプロジェクトというのが重要概念らしい。しかし子供が母親に対する欲望を持ち、父親を殺したくなるというストーリーに現実味はなく、むしろそれに対するオットー・ランクの立場の正しさを雄弁に論じたのは、またしてもノーマン・ブラウンであるという。そしてエディパルプロジェクトとは結局は、子供が自分がこの世でか弱い存在、一人では生きていけない存在なのか、それとも独立した人間としての立場を獲得するのかという問題だという。ところが…・である。ベッカーはここからすごい方向に論を進める。エディパルプロジェクトとは、つまるところ自分は神となるか、というcausa sui の問題に行き着くという。エー?
そういうことなの?