2020年10月4日日曜日

治療論 推敲 2

 

その後の精神分析の歴史の中では、解離性障害、特にDIDについて論じる際にも、そこで見られる交代人格をどのように理解し、取り扱うかについては、識者によって大きなばらつきがある。具体的には個々の人格を、これから統一されるべき、それ自身は部分ないしは断片と見なすか、それともその人格が一つのそれ自身が独立した人格としてとらえるか、である。Donnel Stern Phillip Bromberg はその中でもフロイトの抑圧の概念にまでさかのぼってこの問題を考えた。彼らはウィニコットやサリバンの概念をもとにして解離の概念を再生したのである。その基本概念は、解離されていたものがエナクトメントとして現れるという議論で、その立場はブロンバーグもスターンも変わらない。解離されているものは未構成の思考という事になる。しかしそれは別の人格によっては体験されている可能性がある。その意味で彼らの理論も事実の二重意識を容認しているのではないかと考えられる。それは彼らの言う Multiple self state 多重的な自己状態という事になる。彼は「治療のゴールは、いくつかの部分の統合を達成するよう努力することではなく、自分の複数の自己状態への反省的な気付きを維持する能力を高めることだ uch of the goal of therapeutic progress is to achieve the ability to maintain reflective awareness of one's multiple self states, rather than striving to achieve an integration of one's parts.」と言っている。しかしこの考えは、例えば抑圧やスプリッティングにより分けられていた心の部分に対する向かい方とは大きく異なる、というより正反対であるとみることもできる。 

すなわちここで考えるべきは一種のスペクトラムであり、一方の極に個別の人格を部分とみなすという立場があり、他方にはそれらを別個のものと見なす見方がある。これは monothetic view 単元的な視点と polythetic view 複元的な視点の間のスペクトラムと考えることも出来るだろう。

実は複数の心を想定する精神分析家は、実は多かったのだ。その代表としてフェレンチを挙げておこう。彼の論文「大人と子どもの間の言葉の混乱 やさしさの言葉と情熱の言葉(1933年)」の中から特にそのような彼の考えを表している個所を三か所選んでみる(以下、すべて森茂起先生訳)
 
「成長途上の人間の人生に外傷が積み重なりますと、分裂が増加しかつ多様になり、それぞれの断片が独立した人格のように振る舞って、たがいにほとんど相手の存在を知らなくなりますので、断片相互の接触を混乱なしに持続するのは不可能になります。ついには断片化のイメージがさらに広がり、原子化と呼んでおかしくない状態にいたるでしょう。このような状態像に直面しても沈み込まない勇気をもつには本当に大きな楽観が必要です。それでも私は、そんな状態でもなおたがいを結びつける方法が見つかると期待します。(148ページ。)

「精神分析のなかで分析家は、幼児的なものへの退行についてあれこれ語りますが、そのうちどれほどが正しいか自分自身はっきりとした確信があるわけではありません。人格の分裂ということを言いますが、その分裂の深さを十分見定めているようには思えません。私たち分析家は、強直性発作を起こしている患者に対してもいつもの教育的で冷静な態度で接しますが、そうして患者とつながる最後の糸を断ち切ってしまいます。気を失っている患者は、トランス状態のなかでまさしく本当の子どもなのです。」(143ページ。)

「次に、分析中のトランス状態において起こる現象をつぶさに見ていくと、衝撃や恐怖があれば必ず人格の分裂の兆候があることがわかります。人格の一部が外傷以前の至福に退行することで外傷が生じないようにすることにはどの分析家も驚かないでしょう。驚くのは、そんなものがあるとは私などもほとんど意識していなかつた第二のメカニズムが同一化にさいして働くのを知ったときです。衝撃を受けることで、それまでなかった能力が、魔術で呼び出されたかのように前触れもなく突然花開くのです。日の前で種から芽を出させ花を咲かせてみせるという魔術師の魔法を思い起こさせるほどです。最悪の苦難というものには、死の恐怖ならなおさらですが、深い眠りのなかで備給されないままいずれ成熟するのを待っていた潜在的素質を突然目覚めさせ、活動を始めさせる力があるようです。」 (147-148ページ。)