2020年6月9日火曜日

ミラーニューロンシステムの詭計 1



解離性の人格の形成は、おそらく心を理解するうえで一番その機序が不明なものとされている。それはその端緒さえつかめていないようだ。そもそも解離性の症状については全く原因が不明、というものは少なくない。一つの例を挙げるならば、いわゆる文化結合症候群がある。「ラター」などは突然人(多くは男性、しかし中年以降の女性も報告されている)が誰かに憑りつかれたように凶行に走るという病態だが、ICD-11でもDSM-5でもこれらを解離性障害として扱うことに二の足を踏んでいるようである。訳が分からないからだ。精神分析などでは取り入れや投影といった概念が頻出するが、いずれもメタファーとしてのそれと考えていい。理想化している人の動作をいつの間にか取り入れているという場合、それは誰にとっても追体験できるようなものであり、実際にその理想化対象が心の中に入り込んだというわけではない。あるいは母親像の投影、などという時も、頭の中の母親のイメージがテレパシーのように相手の心の中に飛び込んでいく、ということなどだれも想定してはいない。すべては「あたかも~である」という話の延長線上にある。
ところが解離においては実際にそれが起きるのだ。そしてそれと同じ種類の心の現象を扱っているのがミラーニューロンをめぐる議論というわけである。皆さんはどうして私たちが母国語を普通に話すということができるかを考えたことがあるだろうか? 模倣でない、それ以上の何かが子供の脳のミラーニューロンシステムに起きて、子供は母国語を話すようになる。訛りもそっくりそのままに。それは言葉を話す周囲の人(の脳の機能)が子供の脳に実際に入り込む(正しくはコピーされる)からである。解離についても同様のことが生じると考えられるのだ。しかしそれはあくまでも正常なプロセスとしてではなく、ある種の異常なプロセスとして、である。
何日か前に書きかけたことだが、例えば誰かを殴ろうとしている人を見た場合、殴る側の運動も、殴られる側の運動もその観察者の脳はミラーすることになるだろう。つまり二種類の体験をミラーするわけだが、どちらに注目するかによりどちらか一方のミラーニューロンシステム(以下、MS)が興奮するはずだ。
ところが複雑なのは、自分が殴られる場合である。つまり殴ってくる相手を見ることは、観察であって、同時に殴られる(それを避けようとする)という自己のかかわる行動でもあるというわけである。サルはバナナをつかむという行為をしている人を見て、自分がつかむ場合のニューロンの一部を興奮させる。それがミラーニューロンなわけであるが、ではその手が自分をつかんできたとしたら、ミラーニューロン的にはどのような体験となるのだろうか。通常はそれは「つかむ」、という能動態としての体験としてはインプットされず、あくまでも「つかまれる」という受動態のはずだ。
ところがある外傷的な状況で、別個のネットワークが動員されてそれが能動態としてインプットされるとしたら、それは解離性の人格の核となる可能性がある。これはある意味ではアンナ・フロイトの言った「攻撃者との同一化」におそらく起源を発している。アンナ・フロイトは先生に叱られた男児が、家に帰って弟を同じように叱ることでうっ憤を晴らすというような例を挙げた。これは解離ではないが、されたことを時間をおいて受動モードから能動モードに置き換える作業である。そしてその際は、すでに自分が弟を殴るというそれ自体が独立した能動的な体験が前提となる。
ところがフェレンチ的な意味での「攻撃者との同一化」においては、それが体験されたときに同時に生じていると考えられる。なぜなら殴られた瞬間に殴るという能動的な行動に関連したミラーニューロンの興奮起きてしまうはずだからだ。受動であり同時に能動であるという興奮のされ方をMSは全力で回避するに違いない。そのような装置があるはずであり、それが作動するために、別のネットワークを形成するという詭計を働かすしかなくなるのである。