2020年4月20日月曜日

揺らぎ 推敲 50


心理の世界におけるべき乗則

ここで少し先回りをして、心の問題のべき乗則というのを考えてみよう。本書では後に心についての話に移るが、このべき乗則とか宇宙の塵についての話がどうして心と関係しているかさっぱりわからないかもしれないからだ。とはいえ、べき乗則が心の世界でどのように起きるかという例を挙げるのはあまり簡単ではない。
ひとつの例としてパラノイア、ないし被害妄想を挙げておこう。被害妄想とは、ある特定の人が自分に悪意を持ち、陥れようとしていると信じることである。そのために人は全力を振り絞ってその人からの「攻撃」から身を守ろうとする。何しろそうしなければ自分が殺されたり滅ぼされたりしてしまうと信じているからだ。ちなみにこの特定の人とは、ある組織や、時には国家という形をとるかもしれない。国家が自分の命を狙っているという信念は、もし実際には根拠がない限りは被害妄想ということになる。ただし実際に国によってはそのようなことが起きうるのが現代社会の恐ろしいところである。
被害妄想より一段階程度が弱いものは被害念慮、と呼ばれている。「念慮」、とは難しい言葉だが、要するに「そのような考え、想像」という意味だ。あの人は自分に悪意を持っているのではないだろうか、という疑いや想像のレベルでしかなく、これはむしろ私たちの日常生活で頻繁に起きていることであろう。
朝出勤した時に同僚に「おはよう」と挨拶をした際に、帰ってきた「おはよう」の声が小さかったり、ぞんざいに感じられたりすることがある。すると「あれ、私に何か怒っているんだろうか?」と思ったりすることがある。あるいは誰かにメールを出して、返ってきたメールの文末が少しそっけない感じがし、相手にほんの少しの悪意を疑うこともあるかもしれない。
これらの例は少し大げさに聞こえるかもしれないが、私たちが見ず知らずの他人と接する際の被害念慮は極めてわずかなきっかけで生じうる。高速道路を走っていると、隣の車線を走っている車がわずかに幅を寄せてきたことにも神経を逆なでされた気がするかもしれない。満員電車では隣の人の肩が触れただけで「何するねん!」という反応が起きてしまうことも少なくないのだ。
このような例を考えると、被害念慮は人間の心理が取りうる一つの形として、すべての人の心に備わっていると考えられる。細かい被害感は常に起きていると考えていい。人間の心は、普通に受けとることと、裏読みをするとの間を揺らいでいるのである。そしてどんなに楽天的な人でも時と場合によればかなり被害的になりうる。そして極めてまれにではあるが、大きな被害妄想に発展する。それはいわば起きるタイミングを待っている地震のようなものだ。そしてそれが大きくニュースにとりあげられるのだ。
パラノイアの大きな地震の例を挙げよう。ある人間が誰かに恨みを持ち、攻撃を仕掛ける。1702年に起きた「忠臣蔵」では、大石倉之助が浅野内匠頭に恥をかかされたと感じ、四十数人の人間を巻き込んで刃傷沙汰へと発展した。
そしてごく最近でもある恨みを持った人の犯行により、多くの人の尊い命が奪われるということが起きている。きわめて温厚で人望の厚い大学教授が配偶者を殺害するという事件も起きた。これがその人が本来持っていた精神医学的な問題と見なす方針もあろう。しかしむしろ一見正常な心の持ち主にごくまれに起きて急成長する、途轍もないサイズのパラノイアのせいと考えることもできよう。
こうして被害感はその程度が軽く、頻繁に生じているものから、大きい、しかしまれに起きるものまでのラインナップを形成する。どこまでそれが正確なべき乗則をなしているかを調べるのは手間がかかるであろうが、おそらくそれに近いものが生じていると考えていいであろう。