2020年4月1日水曜日

揺らぎ 推敲 31


心理の世界におけるべき乗則

ここで少し先回りをしえ、心の問題のべき乗則というのを考えてみよう。というのも心についての話を期待している読者には、この様な宇宙の塵のような話がどうして心と関係しているかさっぱりわからないと思うからだ。と言ってもべき乗則が心の世界でどのように起きるかという例を挙げるのは難しい。
ひとつの例としてパラノイア、被害妄想を挙げておこう。私は被害妄想は人間の心理が取りうる一つの極端な形として、すべての人の心に眠っていると考える。いわば起きるタイミングを待っている地震のようなものだ。どんなに楽天的な人でも時と場合によれば被害的になりうる。そしてそれは極めてまれにではあるが、大きな事件に発展する。そしてそれが大きくニュースにとりあげられるのだ。他方では細かいパラノイアは常におさていると考えていい。人間の心は、普通に受けとることと、裏読みをするとの間を揺らいでいるのである。
まずは大きい事件からだ。ごく最近起きたニュースにヒントを得ているが、ある人間が誰かに恨みを持ち、攻撃を仕掛ける。昔の話で言えば忠臣蔵のようなものだ。四十数人の人間を巻き込んで刃傷沙汰が起きた。1702年のことである。そしてごく最近でもある恨みを持った人の犯行により、多くの人の尊い命が奪われるということが起きている。きわめて温厚で人望の厚い大学教授が配偶者を殺害するという事件も起きている。これをその人の精神医学的な問題と見なす方針ももちろんあるが、むしろ一見正常な心の持ち主にごくまれに起きる、途轍もないパラノイアのせいと考えることもできよう。
これらがおそらく最大級のレベルのパラノイアの例とするならば、それより小規模の例はずっと頻繁に起きている可能性がある。同僚が自分にことさら悪意を持っている気がして思わずきつい言葉を投げかけてしまう。そのやり取りが周囲に緊張感を与え、周囲ははらはらそれを眺める、といった程度。顕在化した、ちょっとした衝突や口論のレベルで表出するパラノイアはローカルでは年に一度や二度は起きるかもしれない。
そしてそれよりさらに多いのが、具体的な発言や行動に移されることなく、「あいつ、何やネン!」という気持ちを抱くような状況である。これなど人が集まって何かをする際には起きないことのほうが少ないのではないか。人がグループを形成するところでは、必ずといっていいほど内輪もめが生じる。そしてその最小単位といえば、それこそ人と人とが交わすコミュニケーションにそれは見られる。人は他人の言葉を額面どおりに取ることもあれば、裏読みすることもある。その裏読みとは、当てこすり、皮肉、中傷といった、こちらに対する攻撃の意図をそこに読み取ることだ。
こうしてパラノイアは小さい、しかし数多くのものから、大きい、しかしまれに起きるものまでのラインナップを形成する。どこまでそれが正確なべき乗則をなしているかを調べるのは大変かもしれないが、同様の心の現象はおそらくさまざまな形で存在するのだ。