2020年3月4日水曜日

揺らぎ 推敲 5


例えばこんなことを考えていただきたい。タンパク質が体内の細胞内で合成される。一つのたんぱく質の分子は幾つかアミノ酸の結合により出来る。細胞の中のリボソームという器官で、一つ一つアミノ酸がつながっていくわけだ。そのプロセスは途方もなく複雑だが、しばしば出てくる表現として、○○の部位に××が結合する、という言い方だ。たとえば次のような解説(生物学入門 石川、大森、島田編 東京化学同人 第9章より)。
DNA から mRNA への転写は、酵素である RNA ポリメラーゼによって触媒される。RNA ポリメラーゼは、DNA の二重ラセンをほどきながら、二本鎖のうち鋳型となる鎖の塩基の 配列を読んで、これと相補的な塩基をもったヌクレオチドを次々と呼び込んで結合をつくっていく。」(傍線は岡野)などのように。
しかし「相補的な塩基をもったヌクレオチドを次々と呼び込んで結合をつくっていく」とサラッと書いてあるが、いったいどのようにしてそのようなことが起きるのか。一定の塩基配列の周りにウヨウヨしているのは、途轍もない数と種類の分子である。もちろんヌクレオチドの分子だけではないだろう。つまりその「一定の塩基配列」に対しては、途方もない数の分子が揺らぎながらついて離れ、ついては離れを繰り返している。たいていは両者がうまくはまり合わないから、それらの分子は離れていく。そしてたまたまうまい具合にはまったヌクレオチドがそこに収まるというわけだ。そこでは形状がすべてだ。一般に分子は水中では独特の三次元構造をし、ちょうど鍵穴にハマる鍵のようにして、お目当ての分子と結合するのだ。繰り返すが、ある塩基配列の裏返しになっている塩基が、最初からそこを狙ってやってくるわけでは決してない。すべては偶然の産物だ。ヌクレオチド同士が揺らぎながら途方もない頻度でお見合いを繰り返し、その中からぴったり合ったもの同士が結ばれていく。タンパク合成はこうして水の中での数多くの分子の揺らぎを前提にしないと少しもことは進んでいかない。
もちろん話はタンパク合成だけに限ることではないことは確かである。薬の例でもいい。私たちが春先になり、花粉症に苦しんで抗ヒスタミン剤を服用するとする。ヒスタミンとは抗原抗体反応が起きたときに体の中で分泌される物質で、毛細血管を膨張させるため痒さの原因となる。それを防ぐための抗ヒスタミン物質の分子は、体中をめぐり、ヒスタミン受容体に付着してヒスタミンの作用を抑える。しかしいったいどうやって抗ヒスタミン剤の分子がヒスタミン受容体を探して付着出来るのだろうか。血中に流れる抗ヒスタミン剤の分子はきわめて希釈されているだろうし、身体を構成する細胞の表面に広がる受容体の数はその種類も数も天文学的であろう。そして抗ヒスタミン剤の分子は、どこにヒスタミンの受容体があるかなど知る由もない。ただあてずっぽうに、みずからの振動の力によって数多くの受容体と接していく。そして受容体の方も血中を流れる無数の物質の分子とついては離れ、を途方もなく繰り返し、ようやくお目当ての抗ヒスタミン剤と出会う。それぞれのリセプターがお目当ての分子に巡り合うチャンスはおそらく天文学的に小さいであろう。しかし分子の振動によりリセプターに訪れる分子の数もおそらく天文学的であり、だからこそ分子とリセプターが出会う可能性も高まる。(ここを書いていて私が門外漢であるために、その想像が正確ではないかもしれない。たとえば抗ヒスタミン剤は、ヒスタミンの受容体に優先的に引き寄せられるような仕組みがどこかに存在するのかもしれない。しかしそんなことはおそらく起きないであろうからこの想像のままにしておく。)