2020年3月26日木曜日

揺らぎ 推敲 26


治療者の揺らぎとしての「決めつけない態度」

ここから揺らぎの話につなげていこう。揺らぎの心を持つということは、物事に対する決めつけの態度を取らないことである。なぜならすべての事柄に正解も真実もないからだ。
ここでよく私たちがよく引く一つの例を挙げよう。
コップに水が半分ほど入っている。それを見たある人は、「たった半分しか入っていない」、とがっかりし、別の人は「半分も入っている」、と喜ぶだろう。またさらに別の人は特にのどが渇いていないのでコップの水の量に全く何の関心も示さないかもしれない。ではこれらの反応のいずれが正解だろうか?
もちろんこのような例を示された私たちはすぐにでも次のように答えるだろう。
「どちらかが正解ということはありません。それはその人の感じ方、その人の置かれた状況に依存するでしょう。」
その通りだ。その意味で答えは文脈依存的である、と言うこともできるだろう。コップに半分水が入っているという事実は物理的な描写でしかなく、それに意味づけを行うのは意識を持った存在だけだろう。(もちろん人間だけではない。のどが渇いたワンちゃんなら、コップに半分の水を見ても大喜びするだろう。)
この問題はすでに「意味の揺らぎ」として以前に論じたことでもある。ある言葉が様々な意味を含みうることを理解する力を意味の揺らぎと表現したわけだが、それはA君がBさんから送られたメールについてであった。今ここで論じているのは、コップの水についての事実についてであるが、ここにも意味の揺らぎが存在する。そして治療者の決めつけない態度とは、ここで述べているような事実の持つ意味の揺らぎに相当する。治療者の決めつけない態度とは、ある事実や出来事の持ちうる様々な意味を把握し、それらにあらかじめ価値判断を与えないことなのである。
ここで一つ疑問が生じてもおかしくない。コップに半分の水を見てどのような意味を見出すかは、文脈依存的であるとした。すなわち治療者自身がどのような文脈に身を置くかで、結局はそこに何らかの意味や価値を与えていることになるのではないか。治療者は「決めつけ」をせず、価値を一切持ちこまないということは、治療者は心を持ってはいけない、と言っているのに等しいのではないか?
実はこの疑問はもっともなのである。ある意味では治療者は自分の価値基準、ないしはバイアスを持たずにはいられない。ある治療者はコップに半分の水を「なんだ、半分だけか」と感じる傾向にあるとしよう。彼はそこが自分の体験の出発点であることをよく自覚しておく必要がある。するとクライエントが「なんだ、半分だけか」という反応をしたときに、「その通り、正解!」という感覚を一瞬持ったとしても、そこには留まらないであろう。「彼は自分と同様の発想を持ったのだな。その気持ちは私自身もとてもわかる気がする。でもどうして『半分も入っている』という反応ではないのだろう?」
つまり治療者は自分のバイアスと同時に、コップに半分の水に対する二つ(あるいはそれ以上)の意味の揺らぎを保持していることになる。決めつけない態度は、決めつける自分を、揺らぎの視点を持って客観視している、ということなのである。