はるかに下等な生物でも、目の前の獲物が安全なのか有毒なのかの判断をしなくてはならない。さもないと栄養を補給するつもりが、逆にこちらの命を奪われかねない。あるいは目の前の動物が天敵か、それとも獲物かの判断も必要だ。その選択を誤ると、生命体は命のつなぐための捕食行動を行うことが出来ず、逆に捕食されてしまう可能性がある。あるいは目の前の道が泉やオアシスに通じるか、それとも砂漠に向かうか? これを誤ると生命の維持にとって不可欠な水を獲得するどころか、余分なエネルギーを使い果たし、炎天下で干からびて死んでしまいかねない。
私たち人間の日常生活を考えても、これは全く同じように当てはまる。私たちは生きていくためには常にgood とbad を分けなくてはならない。冷蔵庫に入っている賞味期限が切れかかっている食材は、使うか捨てるかしなくてはならないのだ。そしてこのイエスかノーかの決断を適切に行わないと、私たちは食中毒を起こしたり、どんどん賞味期限の切れて腐敗しだした食材が冷蔵庫に貯まって行ったりする。あるいは横断歩道を渡り始めたところで青信号が点滅し始めている状況を考えよう。渡り切ってしまうという行動は good か bad か。どちらかを決めずに横断歩道の途中で立ち止まっていると、それこそ車に轢かれて天国に行きかねない。
社会で生きていく上でも敵と見方を分けなくてはならないのは同様だ。私たちはおそらくかなり頻繁に、「この人は信用しよう」、「この人とは距離を置こう」、「この人とはもう別れよう」、などの判断をしている。もちろん他人は信用できるか、出来ないか、good かbadかの二種に峻別することはできない。ところが日々の生活はそこにかなり明確な○か×かを具体的に付けることで進んでいく。あなたはある直接の上司のことを基本的にgood と見なして信頼しているとしても、時々無茶ブリされた仕事にははっきりと「no」と言わなくてはならない時もある。その種の決断はその人が社会生活を送るうえでむしろ必要とされている能力でもある。
2.心でサイコロを振ることの重要さ
そのような間断なき選択に関して、ひとつの重要な問いを立てたい。それはAとBという選択肢が、同程度にありうるとしたらどうだろう? あるいはどちらが正解かがわからないにもかかわらず、どちらかを選ばなくてはならない際には、どうしたらいいのだろう? 実はそのような状況は日常生活には極めて多いはずだ。このようなときにそれでも心の中でさいころを振って、その目に従うことが出来るためには、本当の意味でのいい加減さが必要となる。更に言えば、どちらでもいい時に、でも実は微妙な違いを感じ取って、直観というバイアスのかかったサイコロを振って結果的に無難な方を選んでいくためには、非常に高度の能力を必要としているといえるであろう。
皆さんが外国人のお宅にお邪魔して、「コーヒーにしますか、紅茶にしますか?」と聞かれるとする。土居健郎先生の「甘えの構造」(土居、1971)の冒頭にも出てくる例だ。その時「どちらでもいい」と答えるわけにはいかない場合が多いという事はよくご存知だろう。客観的に見ればどちらでもいいことに白黒をつけることは周囲が円滑に進むためにも重要なのだ。私たちが言葉を用いて人とのコミュニケーションを成立させている以上、どちらでもいいがどちらかに決める時のいい加減さはむしろ必然になってしまっているのかもしれない。そしてそのような状況で物事を容易に決められない病気を私たちはよく知っている。それが強迫神経症、強迫性障害なのだ。
おそらく私たちの多くは、意識的にはどちらでもいいと思えることに、さいころを振ってどちらかに決めるという行動は、自動的に起きている可能性もある。意識的にはどちらでも同じだと思っていても、無意識に培われたものがさいころを振る瞬間に影響を与えている可能性があるからだ。
このように良質のいい加減さを獲得できるかは非常に重要なテーマなのだ。サイコロを振り方がその人の運命を決めるといってもいいのだろうと思う。そしてそこにある特別なメンタリティが働いているように私は思う。それはある意味では正解がないことに耐え、そこでの選択に際して後悔をしないということかもしれない。なぜならA,Bの選択が両方とも同程度にありえる場合には、Aを選ぶことにより得られるものと失うものが見えているからであろう。そしてそれはBを選択することにより得られるものと失うものを知っているということになる。AとBの選択はもはや優劣ではなく、異なる人生の選択ということになり、それは異なる運命に身をゆだねることになるのであろう。
どちらも同じように好ましい選択肢のうちどちらかを選ぶ、ということは実は後悔を伴わない行為なのであるが、そのような選択を生と死というきわめて重大に思える選択肢の間で行っていた人たちを描いているのが、司馬遼太郎である。彼の描く人々、たとえば坂本竜馬や西郷隆盛という幕末の志士たちの人生観とはそのように見える。以下の司馬遼太郎の文章を引用しよう。
「しかし戦に負けて軍艦が沈めばどうなります?」「死ぬまでさ」と、竜馬はむしろ饅頭屋の顔を不思議そうに見、当たり前だよ、といった。「然し死ぬのはまだ惜しいです。」「惜しいほどの自分かえ、饅頭屋」「饅頭屋はよしてください。」「では長さん、男はどんな下らぬ事にでも死ねるという自信があってこそ大事を成し遂げられるものだ。」…… (竜馬がゆく 6、司馬遼太郎1998)
この度胸のよさはどうだろう?
あるいは次のような葉隠れの文章を引用しても言い。
武士道といふは、死ぬ事と見付けたり。二つ二つの場にて、早く死ぬ方に片付くばかりなり。別に仔細なし。胸すわって進むなり。
図に当らぬは犬死などといふ事は、上方風の打ち上りたる武道なるべし。二つ二つの場にて、図に当るやうにすることは、及ばざることなり。我人、生くる方が好きなり。多分好きの方に理が付くべし。
これはいざと言うときに死を覚悟していれば、行動を誤ることはないという意味である。
私はここにはまた不可知論が深くかかわっていると考える。それは正解はわからないし、未来はわからないし、その大きな不可知の前で人の命ほどはかないものはないということである。なんという壮大でかつ深い思想なのだろうか?