顕著なパーソナリティ特性
はじめに
本稿ではICD-11におけるパーソナリティ障害において採用されたディメンショナルモデルにおいて掲げられたパーソナリティ特性である否定的感情、離隔、非社会性、脱抑制、制縛性などについて論じる。すでによく知られている通り、現在の精神医学におけるパーソナリティ障害をめぐる議論の趨勢はディメンショナルモデルに向かっているようであるが、2013年に発表されたDSM-5における二つのモデルの提示、そして2018年のICD-11におけるディメンショナルモデルの全面的な採用は、パーソナリティ障害をめぐる現在の混乱をそのまま表しているともいえる(林、2019)。ただしこれはまたこれまで十分なエビデンスの支えもなく論じられてきたパーソナリティ障害の概念がより現代的な装いを新たにするために必要なプロセスかも知れない。そしてこの議論にとどまる保証はない。最近極めて頻繁に論じられる発達障害の問題もこれに絡んでくる可能性があるとしたら、まだ続く可能性があるのである。
林直樹 (2019)パーソナリティ障害と現代精神科臨床 精神医学 61:144-149.
最初にICD-11のPDについてその外観を示したい。ICD-11ではまずPDが存在するか否かを示し、その深刻さ、すなわち経度、中等度、重度のいずれかを示す。そしてPDとまでは言えないものをパーソナリティの問題 personality difficulty と示すとある。そしてそれぞれに関連した特性はそれが心理社会的な機能の障害となっている時のみ記載するというのだ。これは分かりにくいのではないか。つまりパーソナリティの問題や障害の中で、割と純系なものについてはその特性を記載せよ、ということである。するとここでさっそく難しい問題も起きてくるだろう。例えばいろいろな問題を抱えて、どれ一つとってもその純系とは言えない人がいたとする。かなり反社会的でありながら引きこもりがちで、強迫的な人を考えよう。その人の診断は「深刻なPD、おしまい」となってしまう。深刻なPDの人なら、「どのような人か?」はまず示してほしいのだが、それが出てこない。かと思えば衝動的な問題が主としてあるが、それが軽度な場合は「軽度のPD,脱抑制的」という診断も出てくる。しかしこの後者なら「軽度なら脱抑制的であろうとそれ以外であろうと、さほど問題にはならないだろう(だから特に断らなくてもいいだろう)。」と言われるはずだ。それともう一つの問題がさっそく持ち上がるだろう。果たして「軽度のPD」と「パーソナリティの問題」とは簡単に分けられるのか、ということだ。
次にICD-11のPDのディメンショナルモデルに掲げられたこの5つの特性に、DSM-5において掲げられている精神病性を加えた合計6つの特性について簡単に述べたい。それらは否定的感情、離隔、非社会性、脱抑制、制縛性、精神病性だが、どれも日本語で聞いた場合にそのニュワンスが十分伝わらないかもしれない。それぞれ negative affectivity(否定的感情)、detachment (離隔)、disinhibition (脱抑制)、dissociality (非社会性)、anankastism (制縛性)、psychoticism(精神病性)となっているが、どの日本語も英語のニュアンスを直接伝えているようには思えない。さらにanankastism のように、英語の口語でも用いられていないような用語は、それ自身があまりなじみがないかもしれない。
次にICD-11のPDのディメンショナルモデルに掲げられたこの5つの特性に、DSM-5において掲げられている精神病性を加えた合計6つの特性について簡単に述べたい。それらは否定的感情、離隔、非社会性、脱抑制、制縛性、精神病性だが、どれも日本語で聞いた場合にそのニュワンスが十分伝わらないかもしれない。それぞれ negative affectivity(否定的感情)、detachment (離隔)、disinhibition (脱抑制)、dissociality (非社会性)、anankastism (制縛性)、psychoticism(精神病性)となっているが、どの日本語も英語のニュアンスを直接伝えているようには思えない。さらにanankastism のように、英語の口語でも用いられていないような用語は、それ自身があまりなじみがないかもしれない。
ディメンジョナル・モデルとは、PDがそれぞれどの程度ある人のPDを構成しているかという観点からPDの分類を試みるものである。この概念はDSM-IVまで踏襲された、いわゆる多軸診断に近いものと言っていい。
従来のカテゴリカルモデルは診断自体にオーバーラップが在り、またhigh heterogeneity があり、そもそも10のPDは実在するのか,という問題が問われ続けてきた。結局これは次の様なことを言っていることになる。
実際の調査が始める前から、従来人にはジャイアンタイプの人、スネオタイプの人、のび太タイプの人がいると考えられてきたとしよう。それぞれのプロトタイプはドラえもんのアニメに描かれているものとして人々の頭には思い描くことが出来る。しかしそれを実際の人々、たとえばAさん、Bさん、Cさんに当てはめようとすると、 ある人はAさんをジャイアンタイプに、別の人はのび太タイプに、というふうにバラバラに診断を下すということがわかり、それがBさんにもCさんにも起こり、結局診断を下す人によってA,B,Cさんが持つ診断はかなり重複してしまうという問題が起きてしまうことがわかったのである。そして果たしてジャイアンタイプのパーソナリティそのものが存在するのか、という議論になってきたということだ。あえて言えば、たとえば別のアニメでは、ジャイアン、スネオ、のび太とは少し異なる3人の登場人物が現れ、そちらで分類しようという人も出てくるかもしれず、するとそもそもジャイアンタイプの人というのは私たちの心のイメージにだけ存在し、実在はしないという問題も生じてしまうのである。
実際の調査が始める前から、従来人にはジャイアンタイプの人、スネオタイプの人、のび太タイプの人がいると考えられてきたとしよう。それぞれのプロトタイプはドラえもんのアニメに描かれているものとして人々の頭には思い描くことが出来る。しかしそれを実際の人々、たとえばAさん、Bさん、Cさんに当てはめようとすると、 ある人はAさんをジャイアンタイプに、別の人はのび太タイプに、というふうにバラバラに診断を下すということがわかり、それがBさんにもCさんにも起こり、結局診断を下す人によってA,B,Cさんが持つ診断はかなり重複してしまうという問題が起きてしまうことがわかったのである。そして果たしてジャイアンタイプのパーソナリティそのものが存在するのか、という議論になってきたということだ。あえて言えば、たとえば別のアニメでは、ジャイアン、スネオ、のび太とは少し異なる3人の登場人物が現れ、そちらで分類しようという人も出てくるかもしれず、するとそもそもジャイアンタイプの人というのは私たちの心のイメージにだけ存在し、実在はしないという問題も生じてしまうのである。
このことはたとえば、循環気質、分裂気質、癲癇気質などの分類を考えれば実際に起きていることだとわかるだろう。