心の現象としてのアトラクター
心理学的に見たアトラクターの問題とは何か? 実は心とか意識という現象自身が一つの大きなストレンジ・アトラクターとさえいえる。しかしいきなりそんなことを言っても読者を混乱させるだけなので、もう少しわかりやすい話から入る。
私たちの多くが、ある考えや習慣に固執し、それを変えるのはとても難しいという経験を持っている。要するに何事かにハマってしまうことであるが、それがなぜ面白いかと言えば、人によりこれほどまでにハマる対象が異なるという事である。大抵は他人がなぜそれに嵌まるのが理解できない。それでいてそのためにすべてをささげようとする人がいる。
ある新興宗教を信じていた人が、教団内で起きていたさまざまな非倫理的、ないしは犯罪的な問題のために教団を去ることを余儀なくされたが、決してその捕らわれの身となった教祖の影を心から追いやることが出来ない。理屈から考えたらその教団から足を洗うことが自分のためにも周囲のためにも極めて重要であると思いながらも、それが出来ない。これは例のアトラクターの執拗さをまさに表している。精神現象が結局はニューラルネットワークにおける興奮のパターンだとしたら、それはおそらく膨大な数のアトラクターを有することで機能できているのだろう。
私たちがある概念を理解し、ある事柄を認識するということは、それらに相当するアトラクターを脳の中に持っているということである。一例をあげよう。先日の札幌での精神分析学会の際、私は「ホテルエミシア」という名のホテルに宿泊した。ところがその名前がうろ覚えで、それをどうしても思い出さなくてはならない状況で、「エミリア」しか思い浮かばなかった。何か少し違う感じはしていたが、正解が分からない。いろいろな字を当てはめていくと、エミシアにたどり着き、「これだった」ということになったわけだ。エミシアという音のつながりは、ホテルの予約の際に何度か頭の中で転がしたのである程度馴染みがあった。それはユルいながらも一つのアトラクターを形成していた。そこで「エミリア」を手掛かりにしていくつかを思い浮かべるうちに、エミシアというアトラクターにボールがはまり込んだ、という感じの体験が持てたことになる。
人が思考や行動を行う時、その行先を占うことが難しいのは、その心にとって何が一番負荷がかからず、楽なのかについて予測がつかないからである。Aという方針ではなくBを選んだ場合、Aが理性的に考えた場合に過ちで、Bが正しいからとは限らない。Bを考えることが楽だという事実認定が先にあり、Bを正当化するのはそれからだ。右脳や左脳の働きを見る限り、どうもそのようなことが起きているらしいのである。
すでにあげたランドスケープの2番目の図を思い出していただきたい。これはいわばパチンコの台のような地点を持ち、そこから右に転がるか左に転がるかは非常に微妙であることがわかる。人の思考や行動を占なうことが難しいのは、この様に、どのアトラクターにはまっていくかということ事体が微妙に揺らぎを持つ事象だからである。