2019年10月19日土曜日

ランダム性の支配する世界 2


ところでここまでランダム性の話を読んで読者の皆さんは疑問を持たないだろうか? それは生命体の揺らぎと無生物の揺らぎと生命体の揺らぎはどこか違うのではないか、ということである。たとえば大地は揺らいでいる。アインシュタインが揺らぎを見出したブラウン運動では、水の分子のそれであった。しかしこれらは無生物である。他方生命体が自分から揺らいでいるという場合もある。たとえば一分間の心臓の脈拍の数は揺らいでいるし心だって揺らいでいる。両者は関係あるのだろうか? 
これは極めて深遠な問題であり、その問いに対する答えは容易ではない。それは本書が追い求めるひとつのテーマでもあるが、とりあえず揺らぎにはこの二種類があることだけはここで確認しておく。ここで生命体の揺らぎの性質を考える上で私が挙げたいのは、上にあげた心臓の脈拍数の問題だ。すでに述べたことだが、拍動はいろいろな影響を受けて揺らいでいる。つまり早くなったり、遅くなったりを繰り返しているのだ。これは心拍数を長時間にわたって測定するような機器の発達に伴って明らかになってきたことだという。ところが興味深いことに、心不全の状態をきたすと、逆にこの心臓の拍動が揺らぎを失い、かなり規則的になってしまうという。つまり正確な時計のような脈の打ち方になるほど、その心臓は病的である可能性があるのだ。これまで揺らぎとはゴミのようなもの、いらないものとして扱われてきたという話(第○○章)をしてきたが、まさにそれとは逆の話、つまり揺らぎとはゴミではなく、お宝だったという事情がここにも表れるのだ。(参照記事:日本心臓財団のhpに「耳寄りな心臓の話」(66話)『揺らぎなき末期の心臓』(川田志明(慶應義塾大学名誉教授、山中湖クリニック理事長)
さてここで振り返って、生命体の揺らぎ、無生物の揺らぎというテーマを考えたい。心拍数に見られる揺らぎはある種の必然性を伴ったものということが出来るだろう。つまり目的を持った揺らぎ、ということが出来る。ただし、ではどこかに誰かの意図が働いてそうなっているのかといえば、そうではない。むしろ様々なシステム(おそらくそれら自身も揺らいでいる)が機能した結果として導かれる揺らぎというべきだろうか。ここでのシステムといえば、人体の場合には自律神経のシステム、心臓という臓器自身というシステム、血圧を維持する血管系というシステムなどである。それぞれが自然な形で揺らぐことで心拍数が揺らぐ。逆にこれらの間のつながりが途切れると、脈拍は揺らぎを失ってしまうのだ。
このことを考える上で、柳の枝の揺らぎという現象をたとえとして用いたい。一日の内には風が強い時も弱い時もある。健康な柳ならその風に応じた揺らぎを見せるだろう。それは風という外的な力に対してそれを受け流す余裕をそれだけ持っていることを示す。あるいは人の表情筋の動きはどうだろう?日常生活で感じるいろいろなものに応じて動くし、その揺らぎの大きさは健康度を表すだろう。鬱病だったりパーキンソン病だったりしたら、ほとんど表情は揺らがないはずだからだ。という事は脈拍数もそうだろう。その意味で脈拍は体の自律神経系の影響を大きく反映するだろう。それらの刺激は柳の枝に吹き当たる風のような意味を持つはずだ。という事は揺らぎは、ただ意味もなく揺らいでいるのではなく、実はその環境で生じているさまざまな影響を敏感に受け、その影響を受けつつその動きを緩和しているのではないか。柳の枝が大きく揺れることで風の勢いを消すように。
つまり心拍数は、正しく正確に打つことを意図していず、むしろ体で起きていることを反映している。柳の枝が風を受けて揺れるように。するといろいろな強さと方向に風が吹くという事前な在り方をそのまま受け流し、緩衝しているのが柳の枝であり、また心臓の拍動と考えられないだろうか。
つまりここで発想の転換が必要なのだ。心拍数を、心臓が全身に血を送るためのもの、という目的論的な発想を変えるのだ。そして交感神経と副交感神経という、北風と南風が吹いていて、その強さや方向性が少しずつ変動していると考えるのである。すると拍動は風に揺れる柳の枝という事になり、風の方向や強さによりかなり揺らぐものになる。揺らぐという事が柳の枝の健康度を示すというのはそういう意味だ。