ラックマンはこの論文でフェレンチが患者と性的な関係にあったことを示唆するエピソードは二つあるという。一つはエルマ・パロスとの関係、そしてもう一つはクララ・トンプソンの「フェレンチ・パパはいくらでもキスをしていい、と言ったのよ」という言葉だ。この問題で業績の多い André Haynal はしかし、彼は患者との性的な接触は結局は持たなかったという主張を繰り返している。
という事でラックマンの論文はセバーンとの相互分析の話に入っていく。フェレンチの相互分析は、彼がコントロールを失ってしまったという一つの証拠として論じられることが多い。彼女はフェレンチの「臨床日記」ではRNとしてしょっちゅう登場する。フロイトはサバーンのことを知っていて、彼女についてジョーンズやトンプソンから伝え聞いてとてもネガティブな感情を持っていたという。もちろんフェレンチも彼女のむずかしさを自覚していた。彼女は米国で分析を受けて失敗に終わっている。オットーランクは彼女にコンサルテーションを行ったが、フェレンチに分析を受けたらどうかと言ったという。この頃のフェレンチは、難しいケースを扱うという事で知られていたのである。結局分析は1925年から33年まで行われた。その間サバーンはブタペストで働いていたのである。1933年の2月に分析が終結となったのは、フェレンチの悪性貧血による健康状態が悪化したからだ。サバーンはこの終結を不服とする手紙を娘に送っている。そして結局フェレンチは1933年5月22日に没している。この頃同時にフェレンチの分析を受けていたトンプソンは、サバーンがフェレンチの時間とエネルギーを吸い取っていく様子を見て非常に腹立たしく思ったと言われる。
さてラックマンはそれから7段階に分けて詳しくフェレンチとサバーンの分析を解説する。第1段階は敵意の感情により特徴づけられるという。それはフェレンチがサバーンについて、とても強引で気が強いという印象を持ったことが書かれている。そしてそれに続いて第2段階は「症状の展開」とされる。つまり分析により不眠や呼吸困難が生じ、昔の傷跡が刺激され、叫んだり雑言を吐いたりという時期が訪れたのだ。そしてサバーンは、トラウマはそれが繰り返されることで回復するのであれば、繰り返されるべきだとも言ったという。とにかく「あなたは私に十分な関心と共感を向けてくれない」と不満を言い続けたという。そしてサバーンは特にフェレンチのネガティブな逆転移について指摘したという。もちろんフェレンチにとっては、それを持つことも、それを指摘されることも無理のない話だったわけだが。