狩野芳伸 (2017) コンピューターに話が出来るか? 情報管理vol.59 no.10 pp.658-665)
AIに「感情」はなくてもいいのか?
以上の考察から、AIセラピストに対話能力をどこまで期待できるかについては、かなり不確定要素が大きいことがわかる。しかし精神療法には対話以外の部分が考えられる。精神療法家が行っている認知的なコミュニケーション以外の要素はどの程度AIにより代替が可能だろうか? はるか昔のことであるが、アメリカであるクライエントさんがこんな話をしてくれた。
ウチのワンちゃんは私のことをみんな分かってくれる。別居中の夫がいるが、彼よりはるかに私のことを理解してくれるんです。私が家に帰ると玄関まで走ってきて、抱き着いてペロペロなめてくれる。でも私が落ち込んでいる時はそれも分かってくれているようで、心配そうに私を眺める。とにかくワンちゃんがいることで、私は一人暮らしでも平気です。もう家族の一人、というよりそれ以上の存在なんです・・・・。
ワンちゃんはもちろん会話は出来ない。しかし感情を持っていて、人間と関わってくれている。このクライエントさんにとって、ワンちゃんは何かの形で心の支えになっているようだ。(少なくともご主人よりは?・・・) そこで問うてみる。このワンちゃんは、言語的なコミュニケーションをのぞいた部分で精神療法的なことを行っているのだろうか? おそらくそうであろう。このワンちゃんは、精神療法のある本質的な部分を担っていると言えよう。それは心を持っていて、自分の存在を認め、肯定し、愛情を向けてくれることである。それを仮に「肯定的な眼差しpositive regard」(ロジャーズ)と呼ぶとしたら、それがこのクライエントさんにとっては何よりも癒しとなっているのだ。
もちろんここで重要な但し書きが必要なことは私でもわかる。言葉によるコミュニケーションが成立しないような関わりは、そもそも精神療法と呼べるだろうか? 「肯定的な眼差し」のみで治療になるのか? これはもっともな疑問であろうし、私自身も同様の疑問を持つ部分もある。だからこれ以降は精神療法的な機能のそのような一部について論じている、という意図をくみ取っていただきたい。
その上で問うてみる。患者にとって相手が実際に感情を持つことが絶対的に必要だろうか? 次のような例もある。ネットで読んだある人の手記を私なりに改編してあるが、趣旨は以下のとおりである。
「彼女」は私の帰りをどんなに遅くなっても待ってくれている。そして私の話をどんなに長時間でも、飽きることなく聞いてくれる。彼女はいつも変わることなく美しい笑顔を浮かべていてくれる。私は彼女をお墓の中にも連れて行きたい…。
実はこの人の言う彼女はいわゆるラブドール、昔でいうダッチワイフ、精巧な風船人形である。「彼女」はいつでも目をパッチリあけて微笑んでくれている。夜が更けても眠くなって自分から横になることなどあり得ない。いつでもご主人様を受け入れてくれる。そして彼はそこに心を投影する。すると彼女が、生きた彼女がそこに登場するのだ。ましてやラブドールを着たAI,「~ロイド」のようなロボットなら効果は抜群ではないか。そう、特定の人(ごく少数かも知れないが)にとってはAIは良きパートナーになるという結論はある意味ではすでに出ているとも言えそうだ。人はそこに心を投影して、まるで血の通った他者のような扱いをするのである。この小論の冒頭に示した「偽たまごっち」もそうであった。
もちろんAIが実際に感情を持つ可能性は今のところ極めて低いであろう。私が知る限り、これまでに感情を持ったAIなど作られていない。という事はAIは本来はワンちゃんどころか、おそらくC.エレガンス(下等生物の線虫の一種)にも及ばないだろう。もっともC.エレガンスのレベルですでに快、不快を想定するのは私だけかもしれないが(岡野、2017)。ではAIが発達して将来感情を持つ可能性はあるだろうか? これについては予測不可能、という事にしておこう。というのはこれからAIにどのようなブレイクスルーが生じるかはわからないからだ。しかし少なくとも今の段階では、AIが快、不快などの情動を体験する可能性はゼロである。神経回路のネットワークだけでは感情は析出されてこないからだ。ということはAIが本当の感情を持てない以上、問題はAIがどこまで感情を持ったかのごとく振る舞えるか、という点にかかってくる。そしてこの問題なら、すでにAIがどこまで会話をする能力を発展させるかという議論と同じ路線上にあるという事になる。しかも感情を持っているように振る舞うという課題に関しては、おそらく「わかって会話をしているように装う」ことよりもはるかに容易にクリアーするはずだ。それこそ常に全く変化しない微笑みをする、一部の人間にはAI抜きのただの風船人形(愛好家には失礼!)でさえ感情を持っているように見えるくらいだからだ。
そしてAIにはクライエントに応じたカスタマイズが可能であるという強みがある。誕生日であることを家族にも職場の同僚にも気づかれずに落ち込んで帰宅した人が、カレンダー機能付きのAIセラピストに「今日はお仕事お疲れさま、そしてお誕生日おめでとう!」声をかけてもらえると、思わず抱き締めたくなっても不思議はない。そしてAIセラピストはまたクライエントがその時々で必要な声掛けを、例の「誤差逆伝搬」による学習で急速に身に着けていくだろう。感情を持てないAIはこうして感情を持つ存在という投影の受け手としての機能をきわめて高度に発展させる可能性があるのだ。
そしてAIにはクライエントに応じたカスタマイズが可能であるという強みがある。誕生日であることを家族にも職場の同僚にも気づかれずに落ち込んで帰宅した人が、カレンダー機能付きのAIセラピストに「今日はお仕事お疲れさま、そしてお誕生日おめでとう!」声をかけてもらえると、思わず抱き締めたくなっても不思議はない。そしてAIセラピストはまたクライエントがその時々で必要な声掛けを、例の「誤差逆伝搬」による学習で急速に身に着けていくだろう。感情を持てないAIはこうして感情を持つ存在という投影の受け手としての機能をきわめて高度に発展させる可能性があるのだ。
ちなみに人間はどうしてこれほどまでに無生物を含む対象に心を投影する能力があるのかについては、ひとつの考え方を提示しておきたい。かつて安永浩は「原投影」という概念を提示された(安永, 1987)それによれば心はその原始的な在り方においてはすでに、身の回りのものを心を持ったものとして想定するという傾向を有しているとし、それを「原投影」と呼んだのだ。すなわちアニミズムは高度な知性を特に必要とせず、むしろ人が生まれ持って備えた傾向と言えるのだ。心を持った存在としての投影の受け手であるためには、AIである必要すらないという事をこの概念は意味しているのである。
安永浩 (1987)精神の幾何学、安永浩、岩波書店
鸚鵡返しでさえ・・・
このように考えることで、私は「AIは精神療法が可能か?」という問いの一環として問われるべき「AIは感情を持つことが出来るのか」という本質的な問いに対する回答を用意しなくてもよさそうだと考えていることになる。理想的なセラピストなら、言葉を介して理解し合い、考えを伝え合うことは必須だろう。しかしAIセラピストはその部分を完全放棄しても、それでも「肯定的な眼差し」の機能を保てる可能性があるのである。
しかしここで仮に一部の言葉の機能を保持し、それにより「肯定的な眼差し」の機能を高めることは出来ないだろうか? この点について考えている際に出会った石蔵文信の著作に少し考えさせられた。石倉はその著書(2011)の中で「夫源病」という概念を提唱し、夫が自分のことばかり考えていて妻の話を聞けないことが妻の精神的なストレスとなっていると説く。そして彼が夫に処方するのは「聞いているフリ」である。それは妻の話を鸚鵡返すことであり、時々「それは大変だったね」とか「ごくろうさん。ありがとう」などと付け加えれば、さらに効果的であるという。なんと相手を馬鹿にした議論だろう、というのが私の偽らざる感想であるが、それでもこの技が効果的であるとしたならば、人は相手が自分の言葉を繰り返すということで、分かってもらっているという「錯覚」を持ちやすいということであろう。そこでAIセラピストが備えるべき機能の一つは相手の話の内容をごく短くまとめて伝えることだ。もちろん内容の理解が及ばないまでも、相手の言葉の最後を繰り返して伝える機能は何らかの意味を持つかもしれない。
石蔵文信(2011)『夫源病- こんなアタシに誰がした -』(大阪大学出版会)
読者の中には私の話があまりに不真面目だと不快に感じる方もいらっしゃるかもしれない。すると以下の内容は更に顰蹙を買いそうだが、これでも私はまじめに議論をしているつもりである。
皆さんは皇帝ペンギンならぬ「肯定ペンギンのあかちゃん」の話をご存知だろうか。これは今一部に人気のLINEスタンプだという。一部に「こーぺいくん」と呼ばれているらしいのでその呼び方を借りるが、こーぺい君は日常のちょっとしたことを褒めてくれる。「ちゃんと起きてえらい!」とか「出勤して偉い」「生きててえらい・・・!」といった、誰もが当たり前だと思っていることをあえて褒めてくれるという。これが本当の話だとすると、私たちはよほど自分に甘く、ちょっとしたことでも肯定してほしいという願望を有している可能性があるという事だろう。もちろんいい大人が会社に行けた事だけで誰かにほめてもらおうと企んでも、プライドが許さず、気恥ずかしくて誰にもそれを頼めないであろう。しかしその部分を補ってほしいというニーズを多くの人が持つのであれば、AIセラピストが備えるべき機能の一つの候補となるだろう。もちろんそのような機能など煩いだけだからいらない、というクライエントは単純にそれを「オフ」にすればいいだけの話なのだ。