ベンジャミンは一つのテーマを追っているのだ。それは「他者は我々と根本的には同じような心を持っていると感じられるが、同時に底知れぬほどに違う」ということだ。このテーマを彼女は常に考えている。そして「同一化とは、対象の影が自我の上に落ちている」という事だというフロイトの理解が大きな示唆になったという。これは彼女の原体験と言えるだろう。さて、実は私も同じようにこの提言に魅力を感じる。なぜだろうか? それはこれが人間存在が抱える根本的なパラドックスを表しているからだ。他人は自分のようで、同時に自分とは全く違う。どうしてこのようなことが起きるのだろう? それは他人がある意味では自分と同型であり、同一化できる対象だからだ。私たちはたとえばカエルを眺めて、「不思議だ。私と同じようでいて、全く違う!」と感動はしない。私と同じようで・・・、という前提がまず成立しないからだ。という事は、相手と私は全く違うという認識は、似ていると感じ、その人になりきってしまうという体験が一時的にではあれあるからだろう。そして相手は自分と同じ、という認識は、それを持つことである程度はことがうまく行くのだ。だから「違う」という体験を持った時の落差が大きいのだ。あるいは他人は自分と同じと思いたいという願望や、そうする強い傾向が私たちの中にあり、それが「違う」という現実にぶつかるという事を、私たちは永遠に繰り返しているからであろうか。おそらくそうだ。人と触れ合うという事は、自分と同じと思うというプロセスを必然的に伴っているのだろう。そうしないと生きていけないからだ。これは生きる、という体験と似ている。今を生きているとき、私たちは次の瞬間には死ぬかもしれないということを除外して考えている。死の可能性はその意味では否応なく突き当たり続ける現実なのだ。そこが他人は自分と同じようでいて実は違うという体験に似たところがあるのである。
しかしそもそも同一化とは何なんだろうか?他人と自分を同じと感じることだろうか? なんとなくわかるようでわからない。おそらく似たような現象はいろいろな状況で起き、様々な種類があるのだろう。だから似たような概念が生じてくる。同一化 identification、投影 projection、取入れ introjection、体内化 incorporation、などなど。もちろん投影同一化 projective identification、取入れ同一化 introjective identification などのややこしい概念もある。皆少しずつニュアンスが違うから、精神分析学事典などではそれぞれに解説が加えられているのだ。