第10章 ボーダーラインPDを精神分析を超えて理解する
はじめに
ボーダーラインパーソナリティ障害(以下、「BPD」と略記する)の出自は精神分析である。現代の精神医学において精神分析的な概念は徐々に姿を消しつつあるが、BPDだけはしっかり確率された概念であり、それが揺るぐ気配はない。しかし一般精神医学で扱われるようになり、そこには様々な問題が生じている。その事情を十分に理解するためには、いったん精神分析の土台を離れる必要があるだろう。
本章では特にBPDの「医原性」というテーマについて論じる。これは、精神医学において扱われるようになった、言わば疾患概念としてのBPDが、医師ないしは治療者により二次的、人工的に作り上げられてしまうという事情を指す。ただしここでいう「作り上げられる」には、以下に述べるように実際の病理が作られてしまうという意味と同時に、もともとあった病理がさらに悪化したり、実際はBPDとはいえないものが、そのように誤診ないし誤認されてしまうという場合も含むことにする。
BPDの臨床を考える上で、この医原性の問題は現代の精神医学における非常に重要なテーマである。しかしこの問題はまた、BPD という概念が精神分析の枠組みを超えて一般に知られるようになった際に、すでに担い始めていたネガティブなイメージや差別的なニュアンスとも関係していた。歴史的には、類似の例として「ヒステリー」の概念があげられるだろう。ヒステリーは「本当の病気ではないもの」、「演技」、「詐病」、あるいは「女性特有の障害」として、やや侮蔑的な意味で用いられたという経緯があり、治療者側のそのような偏見が、ヒステリーという診断の下され方に大きく影響していた可能性がある。そして現代においては BPD が同様の役割を背負わされているというニュアンスがあるのだ(Herman,1990)
Herman, J.L. (1990) : Trauma and Recovery. Basic Books. New York. 中井久夫訳(1999) :心的外傷と回復. みすず書房、東京
BPD の患者は治療者の間でしばしば「厄介者」のように扱われる傾向にある。スタッフ同士の会話の中で「あの人はボーダーだね」という表現がなされる場合は、過剰な感情表現や行動面での奇抜さ、治療者への批判的態度、自傷行為などのために扱いが難しいケースを指し、その患者が厳密な意味でBPD の診断基準を満たしているかどうかはあまり問われない傾向にある。すなわち治療者の主観がBPD の診断や理解に非常に大きな影響を与えているということになる。そしてそれがBPD が人工的に作りあげられたり、治療者のかかわりがその症状をかえって悪化させたりするという問題を生んでいると考えられる。それはBPDを治療する環境を著しく阻害することにもつながりかねない。
この問題についてもう少し詳しく論じるにあたり、筆者自身が BPD について、論じてきた内容に立ち戻りたい。筆者はかつて「ボーダーライン反応」という考え方を示したことがある(1)。そこでの筆者の主張は、以下のとおりであった。
BPD は私たちが持っている、対人関係上の一種の反応形式が誇張されたケースである。人はみな心のどこかに、「自分は生きている価値などないのではないか?自分はだれからも望まれたり愛されたりしていないのではないか?」という疑いを持ち、日ごろはそれを否認しながら生きている。しかし時々人から裏切られたり、仕事で失敗を繰り返したりした際に、この疑いが再燃する。すると人は不安に耐えられずに、自分を受け入れない人々を攻撃したり、他人にしがみつき、つなぎとめたりすることに全力を奮うのである。
簡単にいえば、人はだれでも精神的に危機的状況ではBPD 的にふるまう可能性がある、という主張である。このBPD的な振る舞いは、いわゆる「原始反応」にもなぞらえることができるであろう。身体的な侵襲に曝された際には、人は理性的な判断に従う代わりに、より本能に根差した反応を見せる。その代表がいわゆる「闘争逃避反応」(2) であるが、ボーダーライン反応もそれとニュアンスが似ている。人は精神的な危機状況に立たされた時に、それを回避するために、結果を省みない唐突な行動を起こすのだ。ただし 闘争逃避反応が 天敵への反応だとすると、ボーダーライン反応においては対人関係における危機、例えば恥をかかされる体験、人に去られる体験、あるいは対人関係上の外傷一般への反応として生じることになる。
この問題にどうして医原性のテーマが絡むかといえば、この対人関係における危機は、治療者患者関係の中でしばしば尖鋭化された形で再現される可能性があるからである。そして治療者はまた、その患者に診断を下す一番身近な距離にあると言えるのである。