2017年12月8日金曜日

パラノイア 1

パラノイア
大変なことになった。パラノイアについて話さなくてはならないのに、全く当てもない。それをどうやって2時間の講義にするのか? 私たちは一応大学の教員ということもあり、とっかかりのあるテーマだったら、何かにまとめ上げることは難しくない。問題は自分にとって未知のテーマ、取り立ててそれについて考えたことがないというお題を与えられて、話さなくてはならない場合だ。それがこのパラノイア、ということである。そしてこの場合、このお題を私に頂いた方々も、「パラノイア」というテーマを選ぶ際にフカーイ意図があったというわけではなさそうである。ということでこのブログを借りるしかない。
パラノイア、被害妄想は体験としては極めてよくあるものだ。被害的になるのは人の常である。私の所属している沢山の団体の中で、被害妄想的な考え方が見られないというものなど考えられない。それに国と国の間もそうだ。二国間の関係など、パラノイア的な要素が見られない関係はあり得ないだろう。基本はパラノイア、なのだ。
思考実験だ。ある部族なり集団があるテリトリーを守っている。そこに外部からの侵入があった。それが力による侵入でもない限り、その集団が「ま、いいか。気にしないことにしよう。」となることなどあり得るだろうか? ある地形でかなりシンプルに分かれているテリトリーがあるとしよう。ある小川のこちら側の低地がわれらがA族。向こう側がB族。ところがB族とみられる人間が川を渡ってこちらにやってきて何かを物色している。たちまちA族の主だった人間は対策を考える。私はそのようなときは「まあ、いいんじゃないの?」と言い出して、「とんでもない!」と皆に言い負かされるタイプである。「放っておいたらこちらが侵食されてしまう。早いうちに食い止めておかないと。」これが正しい反応。動物界を見ればこれは絶対に起きる反応だ。なぜなら縄張り意識が強く、被害的な考え方を持つ個体こそが生き残ってきているからである。私のような「ナアナア主義」(こんな言葉あったっけ?)の人間は本来は淘汰されてしまうはずだ。だから現在生き残っている個体は押しなべて、相対的に利己的で被害的になりやすく、また好色なのである。「被害的」であることが、他者からの侵入の可能性を過大評価して自己防衛、他者の排斥に走りやすい傾向であるとしたら、それこそが生命体が生き残るための最も大事な要素の一つと考えていいだろう。

そうか、こんなはじまり方になるのか。